第4場 よき羊飼いの見守るところ(3)

 結架にピアノを弾いて欲しいと言ったとき、彼の声は、不安にひび割れていたのだ。彼女の謝絶を想定し、それを当然とも考えているようだった。それでも都美子のためにせめて出来ることをという一心で、葛藤しつつも頼んできたのだろう。そう感じとって、その想いに結架はどうしても応えたかった。力になりたかった。彼を困却から解放したかった。罪と感じてきたことを祝福と思えるほどに。ピアノを弾く価値を信じられるほどに。

「第二に、彼女なら、僕の不躾さや非礼には敢えて目を瞑ってくださるだろうと思えたからです。少なくとも、矜恃を害してしまうようなことにはならないだろう、と。きっと、ご寛恕くださるだろうと安心感を抱いてしまって」

 それは、鞍木にも、よく解る。

 常日頃、結架が発している雰囲気は非常に上品かつ艶麗であるのだが、そうした温柔で控えめなよそよそしさは、いったん打ち解けられた後となれば、多少は気安さが度を超えようとも許容してくれると感じさせる。降り積もった新雪の一面の美しさに足を踏み出すのを怯んでも、はじめの一歩を踏みしめれば柔らかく、その心地よさに気持ちが高ぶって、つい必要もない場所にまで歩を進めてしまうというのと似ているのだろう。

「つまりは頼みやすかった、と?」

 その問いに、集一は本心でもって答えた。

「頼みたいという欲求を抑えられなかった、と言ったほうが正しいかと思います。

 涼やかで滑らかな声が空気を渡る。

 結架は隣に座る彼の顔を見上げた。美を追求する芸術家たちが歯噛みしそうなほどに綺麗な横顔が微かに動いて、瑞々しい双眸が彼女を捉える。結架の表情にあったものを正確に察した集一は右手を伸ばして彼女の手を取り、優しく握った。それを見た鞍木は、深く呼吸する。

「なるほど。一応、訊かせてほしいんだが──」

「はい」

 真摯な視線が結架から鞍木に戻る。ただ、その手は、結架のみを包んでいた。彼女の望む強さだけこめた力で。

「──君の、そういった想いは、好奇心という興味によるものか? それとも永続的な興味によるのか」

 ふっと集一の目もとが和む。

 鞍木の心配するさまが、彼には却って嬉しかった。

「興味と呼ぶほど控えめなものではありません、鞍木さん。僕自身、扱いきれないほどなのですから。言うなれば──そう、まさしく──欲求、です。

 さまざまな望みが矛盾しあいつつも互いに根拠となっていて、その混乱のなかに次々と新しい望みが生まれてくる。そして、どんどん膨らむ一方だ」

 結架が目を瞠る。その言葉は、彼女の心の内を説明しているようだった。矛盾する望みが互いに根拠となっている。そのうえに、さらに生まれる望み。

「ここまで強い望みである以上、切望と呼ぶほかありません。僕は結架を必要としています。

 ピアニストでもチェンバリストでも、どちらでもいい。それは彼女の一部ではありますが、すべてではありませんから。

 彼女を護り、支え、幸せにするために、それこそが僕の歓びですから、どうしても彼女が必要なんです。

 こんな事態を引き起こしておきながら、厚顔であると自分でも思います。それでも、たとえ何があろうと、もう身を引くことは出来ません。ただ、今は、それに引きずられてはならない時だ」

 鞍木は、ちらりと結架を見た。

 零れ落ちそうなほど見開いた目に、溢れそうなくらい涙を溜めて。彼女は、ただ、集一を見つめている。

「僕のすべきことなら、何であろうと、します。でも、同じ間違いは二度としたくない。だから、今は貴方の仰ることに従います。それが最善のことなのでしょうから」

 数秒間、鞍木は瞼を閉じたまま、深く考え込んだ。

 ここで二人を引き離したほうが事態は収束できるだろう。いまは隠せたとしても、ずっとこのままではいられない。いずれ、結架は窮地に立つ。

 ──そのとき、おれは、どちらの味方になるべきか。

 こんなに早く、この問題にぶつかるとは、彼は思っていなかった。いずれは起きるだろうと考えていたが、これほど早く、そのときが来るとは。まだ、覚悟も決意も足りないというのに。

 鞍木の瞼が半分ほど上がった。

「……わかった。今の時点で君に訊きたいことは、これで全部だ。もう戻ってくれて構わない」

 そっけない口調だった。

「でも、鞍木さん。カヴァルリ氏のところに、僕も一緒に行くべきではないでしょうか」

「それは分かっている。でも、その前に、結架くんと話さなければならないことがあるんだ。君にも、いずれは話すことになりそうだが、いまはそのときじゃない」

 その声の強張りに、結架が完全に同調する。

 集一は、二人にあらわれた冷たい緊張の重々しさに、何も返せない。ただ、白く美しい顔を硬直させている結架の、なすところを知らぬといった状態にある無表情を眺めた。彼女は感情を見せない顔を集一に向け、それから、ゆっくりと頷いた。

 自分が側にいないほうがいいのか、と、彼は尋ねなかった。最初から結架は集一の同席を拒もうとしていたのだ。いまもそれは変わらないのだろう。カヴァルリ氏と会って話すことも、本心では同意していないのに違いない。

 結架の手を離す前に、彼は少し力を込めた。

「……お願い」

 彼女の声は、かすれていた。

「あちらにいらして。私たちが出てくるまでは」

 自制できず、またその必要も感じず、集一は結架の頬に触れた。彼女の言葉が前夜とは逆のものであったにもかかわらず、その内側に秘められている想いが同一であることを疑わなかった。

 ──お願い、そばにいらして。

 ショパンのワルツ、嬰ハ短調を弾くときに聞いた言葉。

 ──なにがあろうと、そばにいらしてくださる?

 心から欲する望みは何か、と、尋ねた彼に応えた言葉。

 彼女の願い。

 彼女の望み。

「鞍木さん」

 結架の頬に手をあてたまま、彼は言った。

「貴方も結架の幸せを望む人の一人ですよね」

 それは質問ではなく、確認ですらなかった。

 その真意は、自らの要望を伝えることにある。

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