第4場 よき羊飼いの見守るところ(2)
「二人とも、座ってくれ」
結架は促されるままに従ってソファに戻ったが、集一はすぐには腰を下ろさなかった。
「鞍木さん。申し訳ないことをいたしました。僕の行いのせいで、このような事態を引き起こして」
深々と一礼し、態度にも表情にも、これ以上ないほどの悔悟を湛えている。いつも以上に厳粛さを見せる集一に、鞍木は手を振った。
「そんなことは、どうでもいい。おれは君のことも責めるつもりはないから」
そう言いながらも、鞍木の声には険がある。結架は勿論だが、集一にも事前に相談して欲しかった。
仮に聞かされていて、それに反対しきれなかったとしても、知らされてさえいれば、こうした事態を防ぐために何らかの手を打つことくらいは出来ただろう。
その気持ちが声に出てしまう。
「君が結架くんにピアノ演奏を頼んだ。それが間違いないのなら、正確には、いつ頼んだんだ?」
「それは──前日の夜です」
鞍木は内心でのけぞる。
「前夜にか? それはまた、急だな」
「僕がピアノ奏者を紹介してほしいと頼まれた夜でもあります」
鞍木の中で、集一を恨む気持ちは消えた。
考えてみれば、結架が、何日も無断でピアノ演奏をするという秘密を抱えて平常でいられる筈がない。火急の判断であったことは、当然、察せられて然るべきだった。そして、その夜、鞍木は不在であったのだ。報せられる、その手段が無かった。
集一に対する鞍木の声に柔らかさが戻る。
「──そうだったのか。それで、君に頼んできた人は、結架くんを名指ししたのか?」
結架が息をのむ。
ことの重大性を理解して。
最初から結架にピアノ演奏を期待されていたとしたら。
「いいえ。特定の誰かではなく、ピアノを弾ける人なら、特にこだわりはないようでした。それに、もともとは決まっていた代理奏者が怪我をしたための急な依頼でしたから、彼女を想定していたわけではないと思います」
名指しされたのは集一のほうだ。しかし、ピアノ演奏に関しては心得があるというほどのものでしかない彼には、二つ返事で引き受けるような無謀なまねが出来なかった。だから、結架ならばと思いついたのは集一だ。
「でも、その人は結架くんを知っていたんだな?」
集一は慎重に答える。
「面識はありました。会話したことも、何度かは。ですが、そのときに、彼女をピアノ奏者だとかチェンバロ奏者だと紹介していたわけではありません」
都美子と亜杜沙は、かつて折橋 結架というピアニストが存在していたことは知っている。彼女の録音を昔から聴いていたのだから。しかし、都美子の日本料理店で食事をしたときに、ひとりひとりの素性までは明かしていない。無論、結架のことも、苗字は伝えたが、折橋 結架であると紹介した覚えはない。楽団の仲間と思われただろうが、専門の楽器が特定されるような心当たりもない。
宣伝のために作成された今回のオーボエ協奏曲コンサートの案内には、結架はチェンバリストと記載されている。しかも、ピアノを弾いていた経歴は書かれていない。イタリアでの開催だから、名前もアルファベット表記だ。さらには結架にとって通例どおり、顔写真も使用していない。
亜杜沙の語ったところによれば、ピアノが弾ける共演者の女性を連れていくと都美子に話したときにはピアニストの折橋 結架と認識されたのは、ほぼ間違いない。しかし、そうと話す以前に知られていたとは限らない。
チェンバロという楽器を知らなかった都美子に、それがピアノの前身楽器であるから奏者はピアノも弾けるだろうとは予想できない筈だ。亜杜沙ならば出来ようが、それなら名指しで依頼してこないのは不自然だろう。しかし、名指しできるほど彼女という演奏家を知っているのなら、受諾の見込みがないこともおのずと予想できる。よって、最初から結架を見込んでの依頼など、出来よう筈もない。だとすれば、確実に来てくれるピアノ奏者をほかに望むに決まっている。
そこまで考えて、集一は納得した。しかし、鞍木には、順を追って詳しく経緯を説明した。
アレティーノが必要としたピアニストとして準備していた亜杜沙が怪我をしたことから集一に依頼が来たこと、自分は不適格なので、一縷の望みをかけて結架に話をしてみたこと。
正直に、都美子と亜杜沙が結架のピアノによる録音演奏記録媒体を所有していることも付け加えた。結架が沈黙の中で驚くのを集一も鞍木も察したが、彼女は無言を貫いた。
聞き進めるごとに鞍木の眉間に刻まれた皺が多く、深くなっていく。集一の語る経緯からは、恐れていた可能性の一端は認められない。登場する人々の人間関係に、危惧している人物が割りこむ余地も見受けられないが……。
警戒を解くのに躊躇い、鞍木は強い語調で尋ねた。
「君と、その母娘とは、かなり親しいようだが、間違いなく信頼できる人たちなんだな」
「はい」
微塵も逡巡を見せず断言した集一の表情を眺めやって、鞍木は大きな吐息を放つ。
「それならいい。だが、君は──どうして、よりにもよって──いや、どうして、結架くんにピアノ演奏を頼もうと思ったんだ?」
集一は言葉を選ぶ。結架を軽んじているかのような表現はしたくなかった。ただ、率直になりすぎれば、そうした誤解を招くことになりそうだった。
「まず第一に、ピアノが弾けそうな人物として翌日に紹介できる人を他に思いつくことが出来なかったからです。チェンバロの演奏技量からしても、音楽性の高さからも、突然の演奏依頼でも支障ないだろうことは推察できましたし、彼女は海外での活動を、あまりされておられませんし」
「露見する可能性が低い、というわけだね」
「今にして思えば、認識に欠けすぎていますが」
沈黙の中、結架が両手を握りしめる。集一は、その手に触れたい衝動を抑えた。
「でも、それほどの危険を感じませんでしたので、甘えてしまいました。本当に、申し訳ないことです」
集一は、いっさい自分自身を弁護しようとしない。そのことで結架は胸が痛んだ。
そうではなかった。
彼は、当初から憂慮していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます