第4場 よき羊飼いの見守るところ(1)

 集一の腕と胸に抱かれて、結架はせめぎ合う感情の振り幅の大きさに耐えていた。圧倒されるほどの絶対的な安らぎと、消え去ることのない完全体の恐怖に。

 強いのは、安らぎのようだった。当然である。彼女が手を伸ばしてしまうのは、恐怖ではなく安らぎであるのだから。

 もう、ずっと長いこと求めてきた。

 この平安を。

 そして、幸福に高鳴る、胸に満ちる喜びを。

 心の底から、魂の根源から欲する、ついの相手。

 結架は、なにもかも忘れられそうな安堵感に包まれていた。その稀有なぬくもりは、遠い昔に一度だけ手に入れたいと願ったものと同じに思える。一瞥してそっくりだと思ったものは、触れても同じもののようだ。過去に触れたことのある、あの甘く切ない瞬間が、何倍にも引き延ばされて戻ってきた。結架は、そう、感じた。

 そこで、その瞬間にもあったおそれも、戻ってきてしまった。

 無意識に呻く。

 打ち明けるべきであろうかと考えて。

「結架? 苦しいのかい」

 やさしい、涼やかな声。

 それは、ヴェローナのサンフランチェスコ・アル・コルソ聖堂で耳にしたときから、彼女の救いだった。

「いいえ……大丈夫……。大丈夫よ」

 集一の目には、そうは見えない。

 心から消えない苦痛に青褪めて、震えている。

 ほんの僅かに身体をそらし、集一は、そっと両手で結架の顔を持ちあげる。その表情には、彼が見定めようとしつつも未だ見極められていない、彼女の深い苦悩が、それから、無垢な感情から形づくられた極めて精巧な微笑によって隠されている忍従にんじゅうがあった。

 それを見取られまいと、結架は目を伏せる。そして、顔を彼の胸にうずめてしまった。

「もうすこしだけ、こうしていて」

 それで痛みが和らぐのなら、と、集一は思った。

 すこしばかり強めに、両腕で結架を巻きとる。懊悩の渦から彼女を引きあげたくて。

「喜んで」

 それを聞くと、彼女のこらえはきかなくなった。ただ、心のすべてが望むままに、折りたたんでいた腕を伸ばし、あたたかい彼の背中をつかもうとする。そこから離れないように。

 しかし、その瞬間、扉を叩く音がした。

 その硬質な音を耳にした途端。

 結架が発条ばねのような敏捷さで両腕を押し曲げてから強く伸ばし、求めてやまない筈の庇護から飛び出した。

「結架!」

 彼女は混乱した感情の指し示すままに、この場の出口を目指して突進する。出口は開かれたが、そこには当然ながら扉を叩いた人物が入ろうとして立っていたため、彼女は危うく頭を打つところだった。

「結架くん」

 落ちつきはらった声。

 彼は、明らかに予期していた。いきなり飛び出してきた結架を両手で受け止めている。不意になされたバスケットボールのパスを絶妙な感覚で成功させた名選手に見えて、集一は安堵の息をつく。

「──ああ──、鞍木さん」

「大丈夫か?」

 両肩を押さえる鞍木の手に押しとどめられ、結架は我に返った。

「ええ……。あ、いまのは……」

 僅かに冷静さを取り戻して、しどろもどろに答える。鞍木は、幼子の浅慮な振る舞いを看過するときと似た笑みを浮かべた。

「解ってるよ。パニックの発作だな。やっぱり、再発していたか」

 お見通しだ、と云わんばかりの言いように、結架は恥じ入る。青褪めていた頬に赤みが戻った。そのことは集一の前では口にしないで欲しかったが、仕方がない。

 振り向けない結架に、鞍木は、ふっと真剣な表情をした。

「カッラッチさんからの電話で、あらましは聞いた。おおよその事情は理解しているつもりだが、訊いておきたいことがある。いいね?」

「はい」

 そこで鞍木の視線が集一に飛ぶ。

「集一くん。君にも暫く同席してもらうよ」

「鞍木さん!」

 集一が答える前に、初めて聞く強い語調で結架が拒絶を示した。

「そんな必要はないでしょう。私が何もかも、お話しするわ」

 やはり、どうしても結架は集一を騒ぎから遠ざけたかった。現在のためにも、近い未来のためにも。

 鞍木の態度に容赦のない追及をも辞さない強硬さがあらわれた。彼は意識的にか腕を組み、結架を見据える。

「君が自分から望んで酒場でピアノを弾いたという話を信じろと? おれは、カッラッチさんに話を聞かされたとき、冗談だと思ったよ。君にはピアノを弾けるわけがない筈だったからな。ここに来るまでは、人違いでもされたんだろうと、そう思ってたさ。カヴァルリ氏や協賛代表の方々には、折橋 結架はチェンバロしか弾くことが出来ません、と、説明するつもりだったのに」

 無理もない。

 大切な人を失った元凶であると感じていた心が、結架をピアノの音から遠ざけようとさせていたのだ。音楽からは離れられなくとも。

「つまり、集一くんが関わっていないなんてことは、どうしたってありえない。初顔合わせのとき、君たちの様子は、ただの初対面には見えなかったぞ。まあ、旧知の間柄なんてことはないにしても、二人とも、思うところがあったんだろ。おれが何も気づいていないなんて思わないでくれよ。君に対して、もう一度ピアノが弾けるようになるほどの影響力を持つ人間なんて、集一くんの他に誰がいるっていうんだ?」

 結架が絶句する。

 集一のほうは、もともと鞍木に話をしたいと思っていたので、静かに彼女が状況を受け入れるのを待った。

「おれには総てを──可能な限り──多くのことを知っておく義務があるんだ。そうでなくては君を支えきれるか分からない」

 すると、それを聞いた結架は、鞍木が予想した以上に、その言葉に打ちのめされた。彼は責めたわけではないが、本心では結架が事実を告げずに隠れたようにピアノを弾いたことを知って傷ついているのだ。結架は鞍木を巻き込みたくなかったので、事前に知らせる手段がなかったことを幸運に思っていたものの、その行為自体は裏切りと取られても弁解は難しい。

 ただ、鞍木にとって、結架は妹のような存在だ。彼女がどうして無断でピアノ演奏をしたのか、その気持ちを察している。

「ごめんなさい……」

 項垂うなだれた結架の頭に、鞍木は軽く手を乗せた。

「落ち込まなくていい。君が自分で進む道を判断したってことについては、おれは嬉しく思ってるよ」

 無意識に、結架の表情に明るい希望が迸る。それは一瞬のことだったが、鞍木も微笑み返してやった。

かく、対応策を決める。そのために質問に答えてくれ。集一くんもだ。いいね」

「勿論です」

 その了承に鞍木は頷いた。

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