第3場 交差する心、結びつく魂
歩けます、と言った結架を、集一は微笑みで封じた。
「そんな顔色で言われても、信じられる人はいませんよ」
抱き上げて、運ぶ。先導するマルガリータが扉を開けた。しかし、彼女は二人が室内に入ると黙ったまま扉を閉めて、そのまま去っていった。
マルガリータが一言も発さなかったのは、これが初めてである。怒りが頂点に達しているのかもしれないと集一は考えた。無理もないだろう。娘のようにも、妹のようにも大切にしている結架を苦しめることになったのだ。だが、彼を許せないとしたら、カルミレッリのように激しく叱責した筈だ。そうはしなかった彼女が、なにを望んでいるのか、集一は察することが出来た。
この雷雨を、ただ避けて、やり過ごすだけでは駄目だと。
こうなったからには、この
彼女は、そう、目で言っていた。雄弁に。そして、彼もまた、そのつもりでいる。
「ごめんなさい、集一さん」
非常に柔らかい革のソファに横たわらせると、肘掛けに頭を乗せた結架が涙をこぼしながら言った。昨夜は流れなかった涙。彼女の腰の横に、集一は浅く座る。
「やっぱり、私は、
「後悔してるかい? 僕らを助けてくれたこと」
遮られた結架の涙が止まった。あまりにも、思いもよらない方向から問いかけられて、彼女はなにも考えずに本音で答える。
「いいえ! ひとかけらも後悔なんて ありません」
すると、驚いたことに、集一は小さく声を立てて笑った。
「ありがとう」
そう言いつつも、彼は俯き、顔をしかめる。
「……申し訳ない。こんな騒ぎになっても、まだ、僕は、昨夜の歓びが全身にしみわたっていて……」
「それは──」
信じられない思いを、そのまま声に出してしまう。
「わたしもおなじです」
顔を上げ、集一は結架を見た。いくぶん顔色は良くなっている。茫然とした表情はそのままだが、涙はかわいていた。
「でも、貴女を苦しめてしまっている」
集一は身を傾け、手を伸ばした。結架は、頬を包む彼の手のひらの熱に目を閉じる。彼女は、びくりともせず、強張りもしなかった。集一に触れられることを拒まず、むしろ、ぬくもりを求めているようにも見える。
「……不思議ですね。私、いまは苦しみよりも、悲しみよりも、違う気持ちを感じています」
「それは、どんな?」
「しあわせ、です」
結架が首を曲げ、顔を伏せた。絶妙な曲線を描く、美しい横顔。集一の指がすべって、彼女の細い、しなやかな、ひんやりとした髪の中に埋もれる。亜麻色の髪は、迚も柔らかかった。
「こんなに傍に、貴方がいらしてくださって」
集一は驚いた。
彼女は、集一を拒むと思っていた。独りにして欲しいと言われることを想定し、それにどう反しようかと考えていたというのに。
「こうして、私を心配してくださって。
私、心配されるということが、これほど嬉しいことだなんて、思っていませんでした。それに、どうしてかしら。貴方のお傍にいると、どんどん自由になれますの。自分にこうした望みがあったことを、いままで知らずにいたなんて、信じられないほど」
集一は、その髪を、指先でそっと梳いた。真っ直ぐで、頼りなげで、それでいて艶やかな髪を。
「きみの望みを、僕は叶えてあげたい。きみが望む自由を」
思わず率直な言葉で伝えてしまう。
すると、彼女は伏せていた顔を上げた。
「私、きっと、ここにいられなくなります」
気を失い、集一の腕の中で意識が戻って最初に明確に発した言葉を、もう一度、彼女は告げた。今度は、さらに、はっきりと。
「それも、すぐに。でも、必ず代理のチェンバロ奏者を、きちんと手配して──」
「結架」
思わず彼は強い語調で呼んだ。
「きみが責任を感じて辞めることなんてない」
すると、結架の瞳が潤んだ。悲しげな微笑が浮かぶ。
「ちがうの。そうじゃないの。でも、そうなってしまうわ」
結架のなかに長らく抑えられてきたものが、ついに
彼女は、自分自身にすら隠しつづけてきた感情を解き放ち、それを言葉と声にこめる。その想いの強さで苦痛を
「私は自分で仕事を選べないの。
お受けすることも、お断りすることも、どちらも自由には出来ない。
勿論、誰しもそういうことは多かれ少なかれあるでしょうけど、私は、望むことすら許されない」
──背けば、周囲が不幸に満ちるの。
いつも、支配されてきた。どれほど離れても、その支配から抜け出せない。
結架は悟った。
背こうとすればするほど、周囲に悪影響を及ぼす。
「結架。独りで
そのときの集一の表情は、いままでに結架が見たことのある、誰の顔にあった悲痛をも些末な悩みであったと感じさせてしまうほど、深い哀切さで翳っていた。
もう逢えなくなると覚悟したからこそ表した親しげな態度を、集一は鋭敏に察知している。
こういう様子を、こんな雰囲気を、彼は知っている。もう、ずっと昔に、おなじようなことがあった。あのときは後悔したのだ。もっと踏みこんでいたら、
──天使を救う騎士など、誰にでもなれるものではない。
──どうか迷わないでください。唯一無二の幸福を前にしてこそ、ひとは失うときの絶望に怯えるものです。
──わたしは、たくさんのひとを不幸にしたから。
──お願い、そばにいらして。
今度こそ護りたい。
集一は強く思った。そして、想い出す。
あの、儚げな、
──芸術による愛の女神、エラトーだろ。愛らしい女。
これまでに聞いた、さまざまな人の言葉が耳の奥に甦る。
そのとおりだ。
そして、しっかりと自覚した。
──僕は彼女に夢中だ。
「もう、そうまでして耐えなくていい。僕の傍にいることで自由になれるというなら、結架。きみの自由を僕に護らせてくれ」
これ以上は無理だと解るほど、結架が目を見開く。零れ落ちんばかりに。
「きみの心から欲する望みを、教えてほしい」
それを聞くと、今度は目を閉じた。涙を
「どうして──」
結架の水晶の声が揺らめく。
「こんなにも嬉しいことが、苦しく感じるのかしら。私を一番、苛むのは、貴方だわ」
みどりを帯びた茶色の瞳。そこに映る集一も揺れた。
「なにがあろうと、傍にいらしてくださる? 集一……」
彼は両腕を伸ばした。
結架が半身を起こそうとする。
いまにも折れてしまいそうな、細い、弱々しい、儚げな身体。しかし、確かな温かさと柔らかさを感じられる身体。
もう一度、と、願った瞬間。
「そう望んでくれるなら。でも、もしきみが拒もうとしても、離れたくないよ」
すると、彼女は頷くかわりに、彼の腕の中にすっぽりと身を収めた。
小さな雛鳥が巣立つ前には、きっとこういう温もりを全身に憶えさせるのだろう。結架は、そんなことを考えた。だからこそ、大空を誇らしげに飛べるようになるのだ。
翼をめいっぱいに広げて、高らかに。
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