第2場 魅了への息吹(3)
結架はたちまち、力を取り戻す。彼の立場が脅かされるという可能性に直面した途端、彼女は倒れてなどいられなかった。身を起こし、振り向いて、しかし、血の気の引いた顔のまま、彼の眼を見上げる。
無意識に、結架は集一には日本語で言った。
「これは私の問題です。貴方を巻きこむわけにはまいりません。こうなった以上、隠すのは難しいでしょう。けれど、貴方のことまで明かしてしまったら、とりかえしのつかないことになります」
その言葉の奥に、どれほど深い意味がこめられているのか。その場に鞍木がいたならば、理解しただろう。仮に日本語を理解できたとしても、日本での結架の生活を知る者でなければ、それは、窺い知ることの出来ないものだ。だから、このときの集一も、そこまでは理解しなかった。
彼は敢えて英語で答えた。
その場の全員に、自分の行為を隠さないために。
「けれど、貴女にピアノを弾くよう、お願いをしたのは、この僕です」
マルガリータをはじめ、そこにいた誰もが目を瞠った。
「シューイチ……ほんとうに?」
集一は仲間たちの顔を見た。
当然ながら、皆、驚いている。
職業として楽器を演奏している者というのは、
集一は躊躇わなかった。
「はい。あの酒場の店主は、僕が懇意にしている方の親しい友人です。昨夜のピアニストが見つからずに困却しているという話を聞いて、結架さんに、僕が直接にお願いをしました」
彼は表情を崩さない。
「一度きりという約束で。
夜の酒場で、チェンバリストである彼女のピアノ演奏を見抜かれるようなことはないと、そう思ってしまいました。皆さんには、お詫びの言葉も見つかりません。すべて僕の過ちです」
「──たしかに、この記事には、店内の照明が暗く、しかもピアノに幕が張ってあって演奏中の姿が見えなかったと書いてありますね」
ミレイチェが暗い声で呟く。
しかし、カルミレッリは凄い剣幕で叫んだ。
「そんなこと! だからって、ユイカを利用したんじゃないか。ユイカを侮辱したも同然だ!」
肩で大きく呼吸して、
「ぼくは許せないよ、シューイチ!」
いまにも集一に掴みかからんばかりのカルミレッリの肩を、フェゼリーゴとアンソニーが抑える。
「カルミレッリ」
両目を潤ませた結架が、それを止めた。
そして、イタリア語で彼に向かって何かを訴える。それを聞くと、カルミレッリは握りしめていた両方の拳を緩めた。
「ユイカ……」
場の状況を収めたのは、やはりフェゼリーゴだった。
「とにかく、ミスター・クラキと、ミスター・カヴァルリが着くのを待つのでしょう。シューイチ、ユイカを休憩室に連れて行きなさい。まだ、酷い顔色だ。わたしたちは、部屋に戻りましょう。ミスター・カッラッチ」
ミレイチェが頷く。
「私はカヴァルリ氏をお迎えしなくては」
そして、集一を見た。
「シューイチ。あとで劇場の支配人室にミス・オリハーシと来てもらうことになるだろう。だが、彼女の具合が芳しくないなら」
「彼らには、僕が、お話しします」
結架が集一の腕を掴む。彼は、ごく微かに笑みを浮かべた。
「大丈夫。これは、僕が果たさなければならない当然の義務だから」
それならば、自分の義務は、何か。
結架は胸を突かれる思いだった。
これほど彼に関わってはならなかったのだ。
やはり、自分は周囲を不幸にしてしまう。
ピアノを弾くと、誰かを傷つけてしまう。
結架は顔を覆ってしまいたかった。なにも見ず、なにも聞かず、美々しく飾られた檻に戻るべきだと考えた。しかし、それは願望の裏返しであることも思い知っていた。
傍にいたい。
離れたくない。
日本に帰りたくない。
そう願う気持ちは、むしろ高まっている。
こんなことになっても、結架は自分が悔やんでいるわけではないことを自覚していた。間違ったことをしたとは、思えないのだ。正しいことをしたのではないとしても。
そして、さらに欲求を感じる。
会いたくない。
責められたくない。
日本に帰りたくない。
鞍木は、なんと言うだろうか。
自由に自分自身の足で立って生きるために、彼は結架をイタリアに来させてくれた。しかし、それは日本で暮らす彼女の将来を、より良くさせる目的からであり、まるきり変えてしまうことまで想定していないだろう。なぜなら、そんなことはとても叶えられないだろうと、結架も鞍木も身に沁みているからだ。
このとき、フェゼリーゴが、なぜ二人を周囲から隔てた空間に置こうとしたのか、結架は長いあいだ気づきもしなかった。
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