第2場 魅了への息吹(2)

 血相を変えたマルガリータの詰問に青褪めたミレイチェが、深い吐息を放った。結架の指から そっと紙を抜く。

「これを……。今朝から劇場のホームページに無断掲載されていた記事だ」

 マルガリータが開いた、プリントアウトしたその紙を、全員がのぞきこむ。

「──なに、これ」

 記事は二枚の画像と文章とで構成されていた。

 店名は判らないようにしてあるものの、全員に見覚えのある店舗の外観写真。それと、薄暗い店内の写真。人影が写ってはいるが、その顔は不鮮明で人物を特定することは出来ない。

 画像の下に、大きな赤い文字が英語で書かれている。

『日本のチェンバリスト、ユイカ・オリハシ。イタリアの酒場でピアニストとして復活? かつてピアノ・リサイタルのチケットが高額と有名であった美貌の音楽家が無料の演奏、なぜ。チェンバリストとして出演する王立劇場でのコンサートの前売りチケットは完売』

 今度は集一の全身から血の気が引いていった。指先から、ざわざわと音を立てるように凍っていく。結架を抱く彼の腕に力がこもった。

 かすれた声が呻く。

「ああ──これは、僕のせいだ」

 マルガリータが厳しい眼光を閃かせた。

「なんですって、どういうこと?」

 しかし、口を開いたのはミレイチェだった。集一が答える力を取り戻す時間を与えるかのように。

「今朝、早くに劇場の事務員から連絡があって、ホームページに妙な記事が投稿されてるっていうから何かと思えば、こんな怪しい画像と文書が出ていてね。だけど、妙に具体的だろう」

 細かい字で、店の中の状況と演奏された曲目が記されている。

『エリック・サティのジムノペディ、第一番。チャイコフスキーの四季から三曲。ショパンの夜想曲、第八番。ワルツが二曲。いくつかのカンツォーネ。ふたたびエリック・サティの愛撫、ワルツ=バレエ、幻想ワルツ、あなたがほしい。最後にショパンのワルツ、嬰ハ短調、作品六四の二』

 弾いた順番も正しく書かれている。それどころか、演奏の評価まで曲ごとに細かく綴られている。その多くは褒め言葉であるものの、演奏行為そのものについては非難しており、ただの音楽愛好家の手によるものとは思えない。

 不快感が胸に渦巻いて、集一は強い嘔気おうきを感じたが堪えた。迂闊に結架を巻きこんだ自分に、怒りを抑えられない。

『特筆すべきは、ショパンのワルツである。これは彼女の最も得意としていた曲のひとつであり、昔から評価が高い。録音もこれまで三度もされている。その、どの演奏とも違う、非常に情熱をこめた、しかし繊細な演奏であった。もし仮に再びリサイタルで弾かれると発表されたとしたら、チケットがこれまでより高値であろうとも、完売は疑いようがない』

 一瞬、集一は都美子とアレティーノ、あるいはどちらかに疑念をいだいた。

 これに二人が、もしくは何方どちらかが関わってはいないか。

「ただの怪文書と見過ごすには、詳細すぎて不気味だ。まあ、ホームページからは既に削除されているし、今のところは再掲載されてもいないし、発見と削除が早かったから、問い合わせなども恐れているほどは発生していないが、いくつかの音楽雑誌から真偽を問う電話があったそうだ。当然ながら主催の財団、それから今回のコンサートを録音する会社と協賛会社、代理店、後見団体が対応している。

 あまりに内容が詳しいので、本人に何か知らないか事情を訊きたいと、理事たちやカヴァルリ氏が仰ってね……」

 眉間に深いしわを寄せ、ミレイチェが苦しげに言う。

 そのとき集一の腕の中で、呻き声がした。

「結架」

 しかし、彼女は息を吸ったものの、うなされているかのように譫言うわごとを繰り返した。

「……めんな、さい……、おねが……ゆ……るして」

「ユイカ」

 日本語の意味は聞きとれないながらも、その酷い苦しみを見て、マルガリータが結架の額に手を当てる。

「や……あっ……、……さま!」

 結架が目を開けた。瞳の焦点が合うと、大きく呼吸を繰り返す。しかし、押し出された声は細く、かすれていた。

「──しゅういち、さん?」

 みるみるうちに涙が溢れて、結架の頬が濡れていく。

「どうしよう……。私、ここに、いられない」

 真っ青な顔のまま、彼女は喘いだ。

「もう、ここに、いられないわ」

「結架……」

 それから彼女は、いま頼るべき人物のことを思い出した。

「鞍木さん──鞍木さんは? 鞍木さんは、どこ?」

 起き上がろうとして、彼女はもがいた。しかし、まるで力が入らない。床に右手をついたが、自分の身体の重みを支えられずに、よろめいた。

「だめよ、ユイカ。無理しちゃ、危ないわ」

 すかさずマルガリータが彼女の肩に手をかざす。その細い両肩を、後ろから集一が支えた。

 いつも彼女からは、開きかけた薔薇の蕾のような香りが漂うのを感じていたが、いまその香りは、冷たい夜の露に弱められている。漆黒の、光の見えない恐怖の風に吹きあおられて。その香りを逃さぬよう、それが彼女の生命力のもとであるとでもいうように、集一は大切に腕にかかえた。こわれものを包み、割れや傷を防ごうとする、やわらかで、あたたかな、厚い天鵞絨ヴェッルートのように。しかし、それも、いまの結架には、効果がない。倒れそうな身体を支えているのが誰なのか、感じとる余裕すらないのだ。昨夜、同じ腕が齎した喜びと幸福は、もう彼女のもとになかった。

「コースケとは、つい先ほど電話で話をしました。ミラーノから急いで戻るそうです。日本に連絡をしてから」

 ミレイチェの言葉に、結架の恐怖は極限に達した。全身、一面に細かいひびが入ったようだ。彼女は喉が破れたのではないかというほどの痛ましい声で叫んだ。

「そんな……!」

「大丈夫ですよ。彼から、落ちついて待っているようにと伝言があります。カヴァルリ氏とは一緒に会うから、心配しないようにと。何も恐れなくてよい、とね」

 しかし、結架の震えは止まらない。

「ミスター・カッラッチ」

 集一が声を発した途端、結架がびくりと硬直する。

「僕がご説明します。こんな事態を招いたのは僕であり、結架さんではありません」

「……君は事情を知っているのか」

「はい、何もかも。ですから、責められるべきは、僕です」

「だめっ、集一さん!」

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