第2場 魅了への息吹(1)

 繊細で幽玄的なオーボエの音色は、気がつけば少しずつ結架の脳をとろかせて、修復不可能なほど別の形に変えてしまっていた。思考能力を奪ってしまいそうな音を聴きながら自分の演奏を保つのは、並大抵のことではない。

 チェンバロの鍵盤の上でもつれそうになる指を励ましながら、彼女は迷わず断言した。

 オーボエほど、蜜のように甘い響きを生む楽器はない。

 魂の根底から快感にたかぶらせ、悪魔ですら愉悦に溺れてしまうのではないかという夢想にいざなう、美しい、言うなれば大気中の姿なき宝石。それは、鼓膜に届いたとき、純度の高い結晶を生むのだ。

 Oboe d’amore──愛のオーボエオーボエ・ダ・モーレと呼ばれるものがオーボエ属にはある。一八世紀に発明された、かんの先が空気をためこんだように膨らんでいるバロック楽器だ。より甘く、あたたかい音色を出すことから名づけられたという。現在のオーケストラでは、似た形状で音域の異なるコーラングレが使用されているので、ほぼ出番はない。

 その名前を教わったとき、結架はオーボエ属の生み出す艶めいた甘美さを、これほど ぴたりと表現する呼び名はないだろうとまで思った。

 この楽器が普通のオーボエと違うのは、音域が短三度低いということだ。音符の数でいえば半音三つ分である。つまり、多くの一般の聴き手にとって、その差は皆無に等しい。

 詩情をかきたて夢想を呼び覚ます華やかな音色ねいろは、一般的なオーボエにもあてはまる。無論、奏者や奏法、楽器によっては、硬く厳めしい音や、強く激烈な音も出ることは出る。しかし、表情豊かであるがゆえに、音色おんしょくが変わりやすいオーボエは、低い音が割れたように出たり、高い音では細くなってしまったりする。楽器全体が響かずに、発音体であるリードだけが振動して、玩具のような音質になってしまいがちな魔の音──即ち中間のC──もある。ちょっとした気の緩みから、息の量、強弱や運指のずれによって音程が揺れることや、余分な音が出てしまうことも多い。

 だが、集一は、どの音域でも同質の音を吹き、低音でも高音でも常に均等に出すことが出来た。バランス感覚が絶妙で、弱音量ピアニッシーモだろうが強音量フォルティッシーモだろうが同じ音色おんしょくを作り出せたし、音量増強クレッシェーンド音量減弱ディミヌエンドも思いのままだった。

 息の濃さや圧力など、単純な呼吸法の技術だけでなく、その指さばき──たとえば装飾として足される音である、前打音や後打音、複前打音、回音、反復音──の完璧な正確さは、まさに天才的というほかない。信じがたく長く続くレガートは循環呼吸法で生みだしつつも、乱れのない的確なタンギングへと巧みに切り替える。数々のコンクールで絶賛された超絶技巧。

 それでいて、そうした細かい技術を、さらに繊細に繰り出す楽典解釈。絶妙な場面で、絶妙な音と響きを吹く。

 オー・ボワの貴公子と呼ばれる所以ゆえん

 男性にしては細く、演奏家にしては華奢に見える、彼の長い指が、輝く金色のキーを閉じたり開いたりするたびに、鮮やかな旋律が流麗に流れる。

 結架は焦心した。

 この美しさに、きちんと寄り添えているだろうか。

 調和を乱していないだろうか。

 彼と、完全にひとつの流れとなっている弦楽器を支えることが出来ているだろうか。

 ときどきフェゼリーゴが全員を止めて、コンサートマスターとしての意見や指示を出す。

「ユイカ。そこの拍は君が主導してくれ。ヴィオラは、あと一歩だけ前に出る気持ちで。シューイチ、素晴らしい。だが、二回目の主題の装飾を、少し変えられないか。複前打音にしてみてくれ。先ほどユイカが加えた和音と合わせて、試してみたい」

 フェゼリーゴはバロック音楽の醍醐味ともいえる、曲の即興的な演奏に没頭している。その手腕が、とても興味深い。アルビノーニという作曲家と友人であったかのように、その作品を自由に羽ばたかせた。

 そうして、彼らだけの演奏を創り上げていく。少し休憩を、という雰囲気になったとき、異変は起きた。

 廊下の奥で、慌ただしい靴音が床を叩いている。それが近づいてくると、扉が開いて、ミレイチェが顔を出した。

「ミスター・カッラッチ? どうしましたか、慌てておられるようだが」

 彼は、フェゼリーゴの問いかけに大きく息を吐き出してから答えた。

「申し訳ない。ちょっと、緊急の話をしたいのです」

 それから、ぴったり三秒、彼は呼吸を整えた。

「ミス・オリハーシ。訊きたいことがあってね。ちょっと、来てくれないか」

「私に?」

 立ち上がった彼女がチェンバロから離れて歩みだそうとすると、なぜか彼は怯むような表情を見せた。

「ああ。その……実は、カヴァルリ氏もこちらに向かっていて……」

 コンサートの主催代表者の名前に、全員が眉をひそめた。

「わかりましたわ。参ります」

 扉のところまで、楽器を椅子に置いた集一とフェゼリーゴ、マルガリータがついてきた。カルミレッリも、楽器を床の上に横たえて近づいてくる。しかし、ミレイチェは彼らに手を振った。

「彼女だけで構わない。皆は、とりあえず、このままで」

 心もとなさそうな結架の後ろで、心配そうな仲間たちの顔が扉の向こうに消えた。

 そして、残された集一は、胸騒ぎに顔をしかめていた。それを認めたマルガリータが、その肩を叩く。

「……大丈夫よ、たぶん」

 彼女が言った瞬間。

 引き裂かれるような悲鳴が廊下から聞こえた。

「──! 結架⁉︎」

 誰よりも早く反応した集一が、扉を開けて飛び出していく。

 十歩も離れていない場所に、ミレイチェが蹲っていた。その腕の中に、結架が身を伏せている。

「結架」

 手を伸ばした集一が、ミレイチェの腕からそっと結架を抱き上げて仰向けにし、乱れた髪をかき分ける。その顔は完全に血の気が引いていた。そして、意識を失っている。ぐったりと伸ばされた腕の先に、しわの寄った、タブロイドのような紙を握って。

「ミレイチェ、どういうこと!」

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