第4場 よき羊飼いの見守るところ(5)
鞍木は、痛ましい結架の姿に、最悪の想像を否定したくなった。
「まだ、あいつが関わっているかどうか、断言できない。さっきも言ったように、あいつがイタリアに来ることはないだろう。だから、ここでは君の自由に出来る」
鞍木は、本当は結架と同じように迷っている。
ふたつの大切なものを選びかねているのだ。
「日本に帰るときに君が選ぶものを、おれは否定したり邪魔したりはしない。だから、集一くんとのことは、君の思うままにして構わない。あいつには、おれから説明する。君が、このままコンサートに参加できるように」
「そんなこと、許されるかしら……」
それについては、鞍木は自信があった。なにを言えば、言葉も動きも封じられるか、もう解っている。
「大丈夫だ。カヴァルリ氏にも事実のままに説明しよう。だが、世間には発表しない。君はチェンバリストとしての活動しかしていないということで通す。もし仮にピアノの演奏活動を再開するとしても、それは、日本で発表するまではありえない、と」
結架の表情に、僅かに希望の兆しが見られた。
「じゃあ、本当に、まだ、ここにいてもいいのね」
「ああ。カヴァルリ氏も、これだけでは君を解雇できない。なにしろ、彼は君の出演を熱望した人物のうちの一人であるんだからな。多分、酒場での演奏を否定しろと仰るだろう」
弱々しく、しかしながら不安の薄まった微笑みが、結架の表情を和らげる。
「うちの社長も、そうするようにと言っていたから。録音会社も後見団体も、メールだが、同じ見解を伝えてきた。あとは主催のムージカ・アンティカ・パトローネッサ財団と協賛会社がなんと言うか、だが、財団はカヴァルリ氏の一言でなんとかなる。協賛会社のほうは、記事の内容を見るかぎり、彼らは歯牙にも留めないだろう。もともと、このコンサートの主役は君ではなく集一くんだからね。彼のことが記事に書かれていないのが幸いだ」
「……ええ、そうね」
だからこそ、鞍木は記事の発生原因を断言できずにいる。もし、疑っている人物が関わっているとしたら、コンサートそのものを潰そうとしても、おかしくない。それならば結架だけを非難する内容にするのは効果が薄れる。同席していた集一も攻撃していれば、もっと開催団体は騒ぐだろう。それだけ注目が集まるからだ。劇場ピアニストが、なんの予告もなく酒場で演奏したと弾劾するのも、当人だけでなく団体すべてに対してするならば、影響は大きくなる。
高額のチケットを販売しておきながら、好き勝手に無料の独奏会をするのは、協賛会社と聴衆への裏切り行為だといえるのだ。反論は出来ない。
ただし、この記事は結架を演奏者だと決めつけてはいるものの、画像は殊更に暗くて、しかも演奏中の姿は確認できなかったと書いてある。
中途半端なのだ。
決定的に関係者を混乱させるほどの威力ではない。
だからこそ疑わしくもあり、そうでないともいえる。
もしも、これが警告であるなら、結架が自発的に契約を破棄して帰国することを求めている。
だから、結架は集一を避けるべきかと鞍木に尋ねた。
たしかに警告を受け入れるなら、それが最善の選択だ。
しかし、鞍木は断言できた。
そうして日本に帰国したら、結架は以前よりも、さらに惨めな生活を強いられることになる。もう、決して自分の希望を口にすることも、考えることも、なくなるだろう。そうして彼女が保っていた音楽の輝きも失われるのに違いない。
それが、あの者には解らないのだ。
結架の疲れきった顔が、鞍木を見上げて懇願する。
ここから離れたくない、と。
彼は大切な妹を安心させようと、微笑んだ。胸にある、小さな
ここで帰国してしまったら、イタリアに来た意味がない。この仕事を受けるときに辛抱強く立ち向かった、あの苦労も水の泡だ。
「心配いらない。あいつは、ちゃんと説得するから。どう言えばいいか、おれには解ってる。あいつは承諾せざるを得ないよ」
「……そうね。でも、もしも駄目でも、それは、あなたのせいではないわ。私がいけないの」
「そんなふうに自分を責めるな。君がしたことも、集一くんがしたことも、契約には反することだろうが、人倫に反することじゃない」
鞍木は居住まいを正し、確固たる口調で言った。
「いいか。集一くんを護りたいなら、君は弱腰でいてはいけない。
君が強くなれないのは、あいつのことを考えるからだろう。それを今すぐ解決することは確かに出来ない。でも、いま立ち向かうべきなのは、あいつか? 違うだろう。カヴァルリ氏も君の敵じゃない。いま、君が立ち向かうべきは、怯えて縮こまる君自身だ」
結架の両目が見開かれた。
「ここで萎縮していたら、世間に対して記事の内容を認めることになる。それは全員にとってマイナスでしかない。だから君は堂々と、チェンバリストの折橋 結架でいればいい」
苦悩を救う言葉に、彼女は縋った。
いま、すぐに解決しないことを、後生大事に抱え続けることは大変な苦痛だ。少しの間、そこから目を逸らすのも、必要なことだった。
結架は何度も頷き、そして少しずつ立ち上がる力を振り絞っていった。
「……わかったわ。ありがとう、鞍木さん。あなたがいてくださって、本当に良かった」
いつも彼女を見守る、よき羊飼いであろうとする鞍木は、微笑みで応える。
「君が仔羊でいるあいだは、おれが手助けするよ」
そうでなくなったとき、その役目を集一が担ってくれればいいと、鞍木は心から願った。
結架が、これほど心を捧げるさまを見たのは、初めてであったから。
幼いころから音楽にしか尽くしてこなかった彼女が、これほど思い悩むほどに心を寄せているのだから。
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