第8場 過去に濡れる頬
いつもよりも抑えられた照明で薄暗い
大切な友人の苦悶を二〇年以上も見てきて、今ほどに力を貸してやらなければならないと感じたことはない。
「エーレ」
呼びかけると、彼は振り向いた。そして、微笑んだ。しかし、その額に、苦悩が深く刻まれている。
「イーチェ」
「いいのか、本当に」
肩に手を置くと、小さな震えが走った。
「すべてを伝えなくて」
彼は、自分のしたことを後悔していない。今回のことは、その当事者にとって辛いことになるかもしれないと知っていた。しかし、この友の苦しみを思えば、協力しないわけにはいかなかった。これを機会に、事態が打開できるかもしれないと思えたのだ。彼にとっても、彼女にとっても。
そして、過去のわだかまりも、なにもかも明るい未来へ流していける気がした。
すべてを明らかにすることで。
「だから、打ち明けたほうが良いだろう」
しかし、友は首を横に振る。
その手には、小さな懐中時計があった。
悲しみの瞳。
その瞳の中で、それが輝く。
「彼女が、一緒には生きられないと言ったのだ。あのときから諦めるしかないと知っている。私は、ただ、逢えただけで充分だよ」
「そんな表情をしていて、か」
友の微笑が痛々しい。
この世で唯一の人を失った日から、消えない苦悩を見てきた。
「この機会を逃したら、次はもう、ないかもしれないんだぞ。たったひとつの希望だろう。そう言っていたよな、エーレ。この希望があるからこそ、生きていける。そうだったろう」
「ああ、そうだ。いつかと願って、生き繋ぐために先延ばしてきたんだ」
「だったら」
「いいんだ。これでいい」
弱々しい光の中、瞳に浮かぶのは、強さだ。
「今となっては、私は必要ない。そうだろう。それに、君の立場を考えれば、これ以上は甘えられないよ」
「エーレ……」
それ以上、彼は言えなかった。
朝が来ても、夜に起きたことを忘れ去ることは出来ない。
ひとり置き去りにしてきたという感覚が消えない。
昔からの大切な友は、きっと今も、ゆうべの薄闇の中に身を置いているのだろう。
その頬を、過去に濡らして。
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