第7場 羽ばたく心を繋ぐ枷(3)

 その彼女が、たった一夜で再びピアノ演奏が出来るようになった。

 それどころか、封じこめていた禁忌を解き放ち、ピアノを弾ける喜びに満たされたのである。そうしてピアノへの負の記憶から解き放たれた。

 鞍木にも言えなかった気持ちを打ち明けることが出来たばかりか、許され、癒され、護られた。

 食欲がないのは、そうした自分の変化が何に起因しているのかと、そのものを恒久的に必要としはじめている心がいずれ悲劇をもたらすに違いないという不吉な予感、それでいて逆らいがたい熱望を生む存在の大きさ、そうした一連のすべてに恐れ慄いているからなのだった。すなわち、歓びが大きければ大きいほど、のちに待つ危険も、避けようがないということだ。

 集一と都美子、亜杜沙、アレティーノの前で弾いたとき。

 許された、と、感じた。

 もう誰も失うことはないと思えた。

 傷つけることもないと。

 ヘンデルの組曲、第二番。深い慈悲と癒しの光に満ちたアダージョのなかで、そう信じられた。

 そして、ショパンのワルツ、嬰ハ短調、作品六四、第二。

 あの曲が象徴していた罪さえも許された。

 しかし、結架の心には不安が戻ってきてしまった。

 ホテルの部屋と鞍木だけが隣にいる、その現実が、これまでの人生から変わったと思えた昨夜さくやの気持ちを、変わらない昔からの延長である現在に引き戻したかのようだった。

 一晩だけの、違う人生。

 イタリアにいられるのも、永遠ではない。そう言ったら、まだ当分のあいだは時間があると、鞍木は笑うだろう。ただ、ずっと、こうして暮らしたいと思った結架にとって、残りの日数が三日であろうと半年であろうと、あまり変わらないのだ。いずれ、終わりが来る。別れが近づく。

「でも、顔色が悪い。今日は休むか?」

 ぱっと結架は顔を上げた。

 そんなことをしたら、集一が、どう思うか。

 きっと、昨夜ゆうべの無理のせいだと悔やませてしまうだろう。

「いいえ! 平気だわ。なんともないから。ほんとよ」

 明るい声をつくる結架に、鞍木が苦笑する。

「じゃあ、おれは午後からレコーディングの打ち合わせがあるからミラーノに行くけど、大丈夫だね」

「勿論よ。心配なさらないで」

 紅茶かと見えるほど、たっぷりとミルクを入れた珈琲を手にして、彼女は微笑んで見せた。そうした様子の裏に何かを悩んでいることは見抜いていたものの、鞍木は追求せずにいることにした。結架にとっての過干渉を控えるために、日本から連れ出しているのだ。一人前扱いしてやるために。

「困ったことになったら、連絡しておいで。すぐに戻ってくるから」

 ミラーノでの滞在先のメモを手渡しながら告げる。結架は微かに笑んだ。

「ありがとう、鞍木さん」

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