第7場 羽ばたく心を繋ぐ枷(2)
イタリアに来て、かつてない自由を得られる筈だったが、どうしても行動の前に迷いを感じ、それを捨てられずにいた。
こうしても大丈夫だろうか。
こんなふうにしても許されるだろうか。
これをしても怒らせずに済むだろうか。
日々、そう考えてばかりいた。
それが、ピアノの前に座って弾き始めたら、どんどん心が解放されていったのだ。
やりたいことが、次から次へと浮かんできた。
まだ、見つかってはいけないということだけは縛られている。しかし、見つからないように自由に振る舞いたいと願うようになった。
「あなたのピアノ演奏は、最初は苦しげで、僕は申し訳なく思いました。それが、どんどん華やいでいった。感謝しているのは僕のほうです。本当に、迚も素晴らしかった。あのワルツも。また、いつか聴かせてくださいますか」
その腕に、胸に、思わず結架は飛びこみたくなった。
けれど、それだけは赦されない。
恐怖に見つからないようにするには、できることと、そうでないことがある。
自分だけで済むことなら、望んだままに行動する勇気を得られた。しかし、集一を巻き込めない。
「もしも、機会が与えられたなら、いつでも、どこでも、弾きに参りますわ。だって、あなたが、そうできるよう私に許しを与えてくださったのですもの」
そう言って、彼女は扉に手をかける。
「おやすみなさい、集一さん。送ってくださって、ありがとうございました。また明日、お会いしましょう」
彼が頷き終わる前に、結架は視線を外して扉を閉めた。そうしなければ、彼から離れられなくなりそうだった。
それが、
結架はぼんやりと金記章を見つめる。
同じものを彼に渡したことを思い出し、彼がこれをどうしているだろうかと考える。
「おじさま、おばさま。お父さま、お母さま。お兄さま。私をお許しください。私は音楽なしには生きられません。そして、同じくらい……」
──彼を求めている。
その自覚を認めた途端、結架は恐怖に駆られた。
彼に不幸が及ぶようなことだけは、決して、あってはならない。
そのためには、どうすればいい?
この想いを隠すことだ。
誰にも気づかれなければ、彼にも気づかれはしない。
目が覚めたときの幸福感が裏返されて、ひどい苦しみが襲いくる。その激しい落差に、呼吸が上手く出来ない。
──ユイカ。──がレツィオーネを見抜いたようだ。
ヴェネツィアで失いかけたもの。
──望まぬ交流を許さない。それは、堕落の元凶だ。おまえの音楽と、おまえ自身にとって。
禁を破った報い。
──私に言ったわ。どんな理由があろうと、今後、一瞬でも貴女を独りにしたら赦さない、と。
絶望と恐怖が、かわるがわる押し寄せる。
逢いたい。
逢いたくない。
触れたい。
遠ざけたい。
かつての師と、その肉親の名を心で呼んだ。
結架の、人間としての心を知る、数少ない理解者たち。
胸の痛みに耐えていると、礼節を失さない程度の音量で扉が叩かれた。
「結架くん、起きているか?」
いつもよりも遅い結架を心配した鞍木だった。どうやら前夜のうちに、ヴェネツィアから戻ってこれたようだ。
思わず時計を見る。予定していた時刻を、三〇分ほども過ぎてしまっていた。
いつも出かける一時間以上も早くに支度を終えているので、焦ることはない。しかし、結架は慌てて身を起こした。
「ごめんなさい! 起きているわ」
扉の向こうで、安堵の吐息がした。
「具合が悪いわけではないようだね。まだ、急がなくても大丈夫だが、朝食は届いているから」
ムラーノ島から戻ってきて、まだ数時間だったが、彼はいつも睡眠時間をそれほどとらない。あまり長く眠らなくても良質な睡眠を得ているようで、寝不足で調子が悪い様子など、ここ数年、結架は見たことがない。また、時差にも夏時間にも、まったくと言っていいほど左右されないようだ。もう随分前に秘訣を訊いたことがあったが、彼は『枕だよ』と笑っていた。相性の良い枕さえあれば、睡眠で悩むことなどない、と。ほかのものは既製品で充分だとしている鞍木が、唯一、専門店で生地から指定して
結架は洗面台で手早く身支度を整えた。
ホテルクリーニングから戻ってきたばかりの白いブラウスに萌葱色のスカートを合わせる。幅広のタックで上品に広がる裾に花の刺繍が施されており、彼女には珍しく、膝が僅かに見えるほどの丈だ。
二〇分ほどして寝室から出てきた結架を見るなり、鞍木は無意識に感嘆の吐息を放った。
若い娘にしては、日頃の結架の服装は非常に地味だ。フランス留学時代には着飾ることに年齢相応の関心を持っていたのだが、今では全く流行にも無頓着でいる。それでも彼女は正統派な美貌を持つので、賞賛の視線を浴びることが多い。むしろ、清楚で大人しい雰囲気を高める身なりから、親しみを感じさせているようだった。
たとえ柄のない質素なワンピースを着ていても、きっと高級ブランドや宝飾品で身を固めた女性より目立ち、忘れがたいだろう。彼女が身に纏っているのは衣服だけではない。醸し出す雰囲気まで、輝くほどに美しいのだ。
「頼まれていたものは、日本に送っておいたよ。速達扱いだから、来週には届くだろう」
「ありがとう」
結架はテーブルについたが、食欲がなかった。皮を取り除かれ、一口大に切られたブラッドオレンジを、なんとか口にする。
「……こりゃ珍しいな。二日酔いかい」
その声にも、視線にも、まったく咎める調子などなかったが、結架は身が竦む。
「いいえ。違うの。私は
アルコールを避けたいときに結架がイタリアで注文するのは、
だから、昨夜は酔っていない。ある意味では、酔っていたと言えるだろうが。
ところが結架は、ピアノを弾いたことを鞍木には言い出せずにいる。
彼は驚くだろう。
結架の自宅のピアノはカバーをかけられたまま、調律さえ充分にされていない。調律師が来るときは、結架は母屋のピアノ室から離れ、庭に建つ音楽堂にこもっている。そこには父親が蒐集した古楽器が納められており、チェンバロもあるのだ。
そんなふうに、これまでピアノに触れることも出来ずに苦しんでいたことも、鞍木がイタリアでのコンサート出演を結架に奨めた理由のひとつなのだ。
心を強く持って、チェンバロ奏者として独り立ち出来るように。
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