第7場 羽ばたく心を繋ぐ枷(1)
朝、目が覚めたときに感じたのは、音楽の快い波動と、そのなかで生きる喜びだった。
前夜の、あたたかで幸せな時間を思い出し、結架は薄く笑む。あれほどの情熱をもって演奏が出来たのは、初めてだった。演奏そのものではなく、演奏のある夜を楽しんでもらうために、自分自身も楽しむ。その新鮮さの
手のひらの中の金記章を見つめる。
「おじさま……おばさま……。わたし、許されていい?」
忘れたことなどない。
ピアノさえ弾いていなければ失わずに済んだと絶望したことを。
しかし、ピアノが弾けたからこそ役に立つことが出来た。
『ラ・コロラトゥーラ』の閉店時間は一二時だが、その刻限に店を閉めたことはないという。家族のもとに帰ることの出来ない事情のある人間のために、深夜二時すぎまではカウンターを開けている。さすがに従業員たちは帰宅するのだが、店主のアレティーノは訳ありの客に付き合うのだ。
そんな心優しい人物のために、力になれた。同時に、都美子と亜杜沙にも喜んでもらえた。そして、集一を迚も近くに感じることが出来た。自分のピアノ演奏で。
許された、と、感じたのは、彼のおかげだ。
集一を通じて、ふたりに許してもらえたのだと感じた。
でなければ、心に喜びが灯る筈がない。
かつて負った深い傷は、まだ
結架の心は、そうした瘡蓋だらけだ。
あちこちに傷を負い、治る間もなく、増えていく。
しかし、その苦しみも、痛みも、集一の言葉とぬくもりが、優しく宥めてくれた。
彼は、ひとことも結架の罪を否定しなかった。
彼女の苦悩を認めたうえで、もう大丈夫だと言った。
罪悪であると信じる結架を、そのまま受け入れ、許し、抱きとめたのだ。
何もかもを許容する腕の中で、結架は耐えがたい責め苦から解放されることを知った。罰だと感じていた辛苦を、そっとすくいあげてくれる手を得た。そうして、本当の意味で救われたのだった。
大切な人を死なせる根源となった、その象徴であると、恐れつづけた曲。しかし、彼女は弾ききることが出来た。
流れ落ちる滝のように、優美でありながら容赦のない、滝壺を貫く水の流れにも似た音の連なりも、激しい和音も、胸を抉られながら最後まで弾けた。集一の真剣な瞳にこめられた信頼に応えたい。その一心で弾いた。
鍵盤の向こうから見つめてくる集一の存在に支えられて、結架は思い出すことが出来た。何の不安も、恐れも知らなかった、子どものころ。この曲を弾くと、嬉しそうに目を閉じて聴いてくれた、叔母夫婦。柔らかな椅子と結架の音楽に全身を委ねるようにして、彼らは微笑んでいた。
庭に降り積もる雪の、白に積み重なって降りたつ、かすかな足音。その繊細さを、結架は奏でていた。どこまでも寛容だった叔母と叔父に守られて。もう、還ることのない、愛しい日々。
結架の頬を涙が流れていく。
──ありがとう、結架。こうして、あなたが弾いてくれれば、姉さんの音楽は消えないわ。こんなにも素晴らしい演奏をしてくれて、きっと、誇らしげに空で聴いているわね。
そう言った、叔母の笑顔。
忘れてしまっていた。
失った悲しみにばかり心がとらわれて、その前にあった、喜びも、幸せも。
最後の静かな和音が齎した清々しさに、結架自身も、息をのんだほどだった。そして、恐怖の波は、大洋の彼方に消え去った。微笑みさえ、浮かべられるほどに。
この曲を所望してきた女性は、曲が終わる前に姿を消してしまっていたが、もう誰一人、そんな人物に気を留めることもなかった。むしろ、立ち去っていたことに安堵した。どんな賞賛も、苦言も、ごめんこうむる。
ただ、亜杜沙が瞳に感激の涙を浮かばせて、結架の両手を握りしめただけで、充分だった。
それから暫くは歓談したのだが、未成年の亜杜沙のこともあり、あまり遅くなってはいけないだろうと都美子が言った、そのとき、ちょうど席を外していたアレティーノが戻ってきて車を手配したと告げたので、結架は三人と別れ、集一と同乗した。遅い時間だからホテルの部屋に入るまで見届けなければ心配でならない、と、真剣な顔をして言った彼を、結架は受け入れた。そうした心配のされかたは、彼女には快いものだった。禁止でも、監視でもない、護られかた。
車に乗る前にアレティーノに頼まれて都美子が渡そうとした封筒を、結架はそっと退けた。
仕事で演奏したのではなく、親しい大切な人のためにピアノを弾いただけだから、と。そのために、店のピアノを借りたのだ。だから、そうしたものは必要ない。
あの恐ろしい過去を乗り越えることが出来た。それどころか、そのせいで見失っていた、幸福な過去の記憶を取り戻すことさえも出来た。そのことからも、謝礼をすべきは結架のほうだ。
すると、都美子は予期していたらしく、両手で結架の手を包みこみ、柔らかく応えた。
「それでは、また、近いうちに是非、お食事にいらしてくださいませ。最高の品々を、ご用意いたしますから」
必ず、お連れになってくださいね、と、集一に念を押した都美子に、結架は潤んだ瞳を向けて微笑んだ。本当に、なんてあたたかいのだろう。そう、思いながら。
もう何年も、こうした誰かとの触れあいを持てずに暮らしてきた。大切な家族を亡くしてから、ずっと。
部屋の扉を開けて振り向き、結架は集一に丁寧に謝辞を述べた。
本当に楽しく、あっという間に過ぎた時間。
そこで、長いあいだ苦しんできたものを乗り越えられたほどの、安らぎを得られたことに。
そのとき集一の瞳に浮かんだものを思い出すと、結架は震える。
「私は、あなたのおかげで哀しみの輪から解放されました。つらいことが、消えてなくなったわけではないのですけれど──」
「自由になれた?」
驚いた。
気持ちを、ありのままに言い当てられて。
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