第6場 偶然の価値こそ運命にあり(11)

 震える声が続けた。

「叔母とともに事故に遭った叔父には、兄弟がいるのです。あれから、お会いしたことはありませんが、私を、恨んでおられると思います。叔母夫婦は私を実の娘のように育ててくれました。それなのに、そんな二人を、死なせてしまったのですもの……!」

 それが、ピアノを弾けなくなった理由。

 ピアノを弾くのが罪であると思うようになった、はじまり。

 今日、会ったばかりの人もいる前で、これほど打ち明けてしまうことを、結架は頭の片隅に残った理性で不思議に思った。しかし、ひとかけらも後悔はない。心に澱んでいる、苦しみの一部を吐き出せた。そう出来たのは、今夜の秘密を共有しているからだけでは決してない。

 結架は大きな瞳を集一に向けようとした。その瞬間には、もう、あたたかい腕のなかにいた。

 泥の上に倒れそうになったとき、彼女を護った、思いのほか強靭な腕と胸。頬を包む優しさ。もう一度と願った、あの、ぬくもり。

「弾いてください、結架さん」

 亜杜沙とアレティーノが目を瞠る。

「いえ、弾かなければならない。大丈夫。あなたは弾けますよ」

 全身を強張らせた結架が声を絞る。

「でも──」

 集一の声の熱意に真摯さが増した。

「思い出してください。今夜、あなたのピアノで幸福を取り戻した人がいることを。耳に、胸に響くあなたの音楽をそのままに、眠りにつきたいとまで言わしめたピアノです。不幸を呼ぶはずがない。そして、あなたの家族も、皆、聴きたがっているはずですよ」

「集一さん……」

「外にいるのは、まだ若い女性です。あなたが怖れるような関係があるとは思えません。しかし、彼女はあなたにこの曲を望んだ。それは、あなたのお母さまや叔母さまが、あの女性を通じて望んでいるからかもしれませんよ。

 だから、もう、怖れることはない。

 いまのあなたなら、きっと弾けます。今夜、すでに多くの曲を素晴らしい演奏で聴かせてくれた、あなたなら、この曲こそ弾ききるべきだ」

 そっと腕の力を緩めて、集一は結架の顔を見下ろした。

 戸惑いが、縋るような瞳が、問いかけてくる。

 彼は頷いて、もう一度、確信をもって告げた。

「あなたは弾けます」

 そして、上着のポケットから白いハンカチを取り出して、広げる。『勝利者のメダル』。それを見た結架の表情にあった恐ろしい苦痛が、静かな悲しみにまで和らいだ。ほんの数秒間、メダルを挟んで、集一の手に手のひらを乗せる。その僅かな時間で、結架の心は立ち上がった。しかし、震えはなかなか治まらない。

 右手と左手を握り合わせ、結架が、ぎゅっと目を瞑った。溢れそうな涙を封じこめたまま。その耳の奥から胸へと、集一の言葉が響いていく。

 背中を包みこみそうなほど大きく感じる集一の手のひらから伝わる、彼の力強い熱が、凍える結架を温める。

 そのとき結架は、自分の身体が、彼が吹き鳴らすオーボエになったような気がした。この手の揺るぎなさに抱かれて、あの比類ない、美しい旋律が発される、しなやかで細く黒い、オーボエに。

 ──私も、あんなふうに美しく鳴り響けるかしら?

 信じたい、と、結架は強く願った。

 集一の腕の中で奏でられるなら、きっと挫けずに響ける。

 やがて、大きく震えながら息を吸って、細く吐きだす。

「……お願い」

 彼女は、ありったけの勇気をふりしぼった。

「そばにいらして」

 ぎりぎりまで引き絞ったげんを撫でるような微笑みを浮かべ、集一が腕を引き、メダルをポケットに戻すと、握り合わされた震える結架の両手を左右から手のひらで包みこむ。

「勿論です」

 そこに額をあて、一瞬の祈りを捧げて、それから結架は顔を上げた。その瞳に、息をのむほど強い光がある。彼女はピアノの前で姿勢を正した。

 亜杜沙が輝く笑顔でアレティーノを見上げると、安堵と歓喜に胸をつまらせた彼も、黙って微笑みかえした。

 白く細い指が、鍵盤の上に掲げられる。

 結架は傍らに膝をついた集一の顔を見てから、かすかに頷き、両目を閉じて、それから指に力をこめた。

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