第6場 偶然の価値こそ運命にあり(10)

 ほどなくして、カーテンの隙間からアレティーノが出てきた。その後ろに小さな影がついてくる。

「お待たせしました」

 アレティーノが首を後ろにまわし、促すと、母親譲りの艶やかな黒髪を揺らして少女が現れる。

「……あなたが、今夜の弾き手?」

 落胆というより疑念をこめた声音が尋ねた。

 亜杜沙は動ずることなく、頷く。母親に、厳しくイタリア語会話を嗜むよう要求されたことに心の中で感謝していた。そうでなければ、結架を護れなくなるところだ。

「いまのサティも、あなたが弾いていたの?」

 その問いには、亜杜沙は答えなかった。

「リキエスタが、おありだとか。本当は、もう遅いので、帰らなければいけないのですけど、とてもお褒めいただいたので、最後に一曲、弾かせていただきます」

 堂々と、そして平然と、未成年であることをあからさまに主張した彼女に、女性は、それ以上の時間をとって追求することを諦めざるを得ない。

「──そうね。じゃあ」

 女性は目を細めて言った。おそろしく早口の、何故か英語で。

「ショパンをお願いしたいわ。ワルツ・イン・C−シャープ・マイナー。Opオーパス.六四、No.二よ」

「……わかりました」

 深々と一礼して、亜杜沙がカーテンの中へと戻る。

 ところが、しばらくしても、ピアノは鳴らない。

「どうしたのかしら。さっきはショパンも夜想曲やワルツを見事に弾いていらしたのに」

 女性の不審そうな口ぶりに苛立ちを感じとった集一が、おっとりと英語で言った。

「楽譜が見つからないのかもしれません。様子を見てきましょう」

 まったく慌てる素振りもなく、悠々とカーテンに入る。しかし、そこで彼は息をのんだ。

 結架が、両目に溢れようとする涙を必死に押し留めようとしていた。血の気の引いた顔は恐怖に凍り、小刻みに震える両手が顔の半分を隠している。困惑しきった亜杜沙が、その隣に棒立ちになっていた。

「集一さん」

 亜杜沙の声に目だけで頷き、結架の横に跪く。

「どうなさったんですか」

 その問いかけに、結架は声もなく、身を屈めた。

「わかんないけど、弾けないって」

 背後で亜杜沙が短く答える。

 みどりを帯びた茶色い結架の瞳。そこには恐怖と苦痛が渦を巻いている。ここへ着いて、最初に弾いたサラバンドを急に止めたときよりも、ずっと濃い懊悩。

「亜杜沙ちゃん。この曲、きみが弾けないかい」

 そう問われ、亜杜沙は包帯を巻いた指を曲げてみた。痛みはない。しかし。

「ちょっと思ったけど、無理よ。弾けたとしても、これまでの結架さんの演奏と比べたら、まるっきり素人の別人だもん。それに、怪我してないときでも、この曲のいちばん盛り上がるところで、あたしって、指が必ずもつれるの」

「そうか」

 かすれた結架の声が苦しげに漏れた。

「ごめんなさい……ごめんなさい、だめなの……この曲は、この曲だけは……」

 命乞いを口にしているときの表情にしか見えない。

「大丈夫ですよ、結架さん。無理に弾くことはないですから。困らせてしまって、本当に、申し訳ない」

「でも、集一さん。あの女の人、あたしが弾き手じゃないことを確かめたいみたい。絶対、疑ってたわ。結架さんが弾けないと、ひょっとすると、まずいことになるかも」

 不安に曇った亜杜沙の声に、結架は益々、青ざめた。

 集一は決断する。

「亜杜沙ちゃん。楽譜を持ってきていないから弾けないと言い張るしかない」

 彼女が迷ったのは、二秒だけだった。

「そうね。そう言うしかないか」

 そこに、アレティーノが入ってきた。

「結架さん?」

「おじさま」

 長い睫毛の縁まで涙をたたえた清らかな瞳が、彼を映して揺らめかせる。

 彼は、一瞥しただけで、事態を察知したようだった。

 集一が短く下したばかりの結論を告げると、苦汁を飲む表情で頷き、そうするほかにはないと心を決めた。ただ、彼は不気味なものを感じていた。

 あの女性は、折橋 結架が、この曲に対してこうした反応を示すことを予想していたのではあるまいか、と。

 しかし、結架を呼んだのは前夜だ。

 この店で結架がピアノを弾いていると知られることは、ありえないはず。

 そもそも結架は、幼いころを除けば、肖像写真を公開してこなかった。そして、この暗がりだ。クラシック音楽界に詳しい者であろうと、結架の顔を見たとしても彼女の正体を見抜けるような存在はいないと思っていい筈だった。しかも、その機会は先ほどの老紳士と結架が会話した、数分の間しかない。それまで彼女は、ずっと、カーテンの中にいたのだから。

 だが、念を入れておいたほうが良さそうだ。

「集一くん。亜杜沙ちゃんと私があの女性と話しているあいだに、そっと結架さんと店から出てくださいますか」

 それを耳にした途端、結架が顔を上げた。

「見つからないように。カーテンの向こうから、店の裏口側に行ってください」

「……待って……」

 震える声で、結架が言う。

「それは、そのかたが、私の素性を探ろうとしているということですか」

 全員が、深刻な視線を交わす。

「この曲を弾けるかどうかで、あなたがピアノ奏者の折橋 結架だと判断できる何かがあるのですか、結架さん」

 アレティーノの質問は鋭かった。

 結架が唇を噛み、それから潤んだ瞳を彼に向けた。

「この曲は、私の母と叔母が好きだった曲です。ふたりが亡くなったのは別々のときですが、少なくとも、叔母が事故に遭ったとき、私が弾いていたのが、この曲です」

 消え入るように震える声。

「彼女は……叔母夫婦は、私のせいで亡くなりました」

 全員が瞠目し、呼吸を止めた。

 集一の胸を、驚愕とともに激しい痛みが貫く。

 彼女の震える罪の意識が、痛みが、恐れが、空気を冷やして氷の針となり、冷たく突き立ったと感じた。

「フランス留学から帰ってきた私に新しいピアノを与えてくれるために、楽器店に向かう途中で事故に遭って……。そのまま二人とも……」

 それは、あくまで不幸な事故であり、結架が直接、引き起こしたわけではない。彼女が車をカーブで転がしたわけではないのだから。しかし、その気持ちは理屈ではない。結果論ではあったが、結架の新しいピアノを見に出かけなければ、事故は発生しなかった。つまり、結架の存在が事故を招いた。

 ──飛躍しすぎだ。結架に落ち度はない。それどころか、事故とは無関係なのだ。何も気に病むことはない。

 家族は彼女に、そう言った。しかし、そんな言葉でどれほど念じられようと、心は罪悪感にとらわれつづけた。

「私、なにも知らずに弾いていました。

 私がピアノを弾いてさえいなければ、もとより演奏者でなければ、起きなかった事故です」

 つい数時間前、その恐怖は克服できたと思っていた。

 ピアノを弾くことで、誰かを失う。傷つける。亡くす。

 そうしたことは、もう起きないと信じられた筈だった。

 けれど、それは、目を塞いでいただけだったのかもしれない。

 結架が結架であるかぎり、誰かを、その人生を破滅に導くおそれがある。

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