第6場 偶然の価値こそ運命にあり(9)

 そして、アレティーノは店主のかおをして老紳士に微笑みを向ける。彼は両目を閉じ、幸福そうな笑顔のまま、朗らかな音楽の弾けるなかに身を委ねていた。

「あの方は、いつも九時になる前には、お帰りになるのですよ。こんなに長く店に留まるのは、はじめてです。余程、彼女の演奏に心打たれておいでなのでしょう」

「そうでしたか」

 誇らしげな表情で、アレティーノが集一を見つめた。

「貴方には感謝の言葉もありません。彼女を連れてきてくださることが出来たのは、貴方しかいないでしょう。貴方だからこそ、彼女は応えてくださった」

 熱を帯びた声に、戸惑いの視線を返す。

「いえ、彼女は話をしたのが僕でなくても、あなたを助けようとなさったと思いますよ」

 ところが、アレティーノは笑った。

「ここへ着いたばかりの彼女を、見ていたでしょう? 私は思わずピアノ演奏を依頼した張本人でありながら断ろうかと考えました。気の毒なほど震えていらした」

 結架の言葉を思い出す。

 ──私が不安を抱いているとしても、それは、貴方とは無関係です。

 ──ピアノを弾くこと自体が罪であるかのような気がして……不幸を呼ぶように思えて。

 かつては鍵盤に触れるだけで全身が痛んだと言っていた、結架。その彼女が、いまは楽しげに恋の魅力を弾いている。まるで、いつも、そうしているというように。

「あれほどのおそれを隠して、ここへ来てくださったのは、手を引いていたのが貴方だったからでしょう」

 集一は答えなかった。

 しかし、アレティーノは彼の無言のうちにある心を推し量り、その結論に自信を持っていた。都美子から集一のことを詳しく聞かされている。幼いころからの、彼の為人ひととなりを。

 いずれ裏切るようなことになりたくないばかりに、相手に深く踏み入ろうとしてこなかった。頼みごとをするなど、ただの一度もしなかった。どんな女性に対しても。それが集一なりのけじめであり、誠意だった。

 裏を返せば、それほどの感情を相手に抱かなかったのだといえる。だから、頼ることも甘えることもなかった。

 なにかを望むことも。

「貴方が彼女に対して特別な感情を持つことになったとしても、それとも尊い友情を抱いていらしたとしても、どうか、迷わないでください。もし、傷つけ合うことがあったとしても、それは互いに与えることのできる喜びと幸福があまりにも大きすぎて起こることなのですから。それを彼女はおそれるかもしれませんが、いずれはきっと、気づきます。唯一無二の幸福を前にしてこそ、ひとは失うときの絶望に怯えるものなのだと」

 アレティーノが何故こうも熱弁を奮うのか、集一にはわからなかった。けれども、彼が結架の幸福を願ってやまない気持ちでいることは察せられた。そう願わない者がいるだろうか、彼女の人柄に触れて。ただ、これほど強い懇願を集一に対して向けてくる人物は初めてだ。しかも、まだ数時間しか、三人が共有した時間はないというのに。

「貴方は──本当に不思議な方ですね」

「申し訳ない。出過ぎたことを申したようだ」

 集一は微笑む。

 マルガリータも、そうだ。そう、思いだす。結架を妹のように、娘のように大切に扱う、彼女を。

「いいえ。どうやら彼女と親しくなる人は、みんな、彼女の不幸を許さないのです」

 きっと、ずっと以前から。

「貴方も、ですか」

 まっすぐに、快活な目で、集一はアレティーノを見た。

「僕も、です」

 それも、きっと以前から。

 ふと、集一が視線をアレティーノの肩越しに飛ばした。

 振り向くと、先ほどの老紳士が佇んでいる。彼のいたテーブルの上のグラスは、空になっていた。

「ありがとう。今夜の弾き手は、まったく素晴らしい」

「楽しんでいただけて、嬉しいかぎりです」

 穏やかな笑顔。彼は名残惜しげに、灰色の瞳をピアノのあるカーテンに向ける。そこからは若々しい恋の歌が流れ出ていた。

「弾く姿の美しさを目に出来ないのは残念ですが、彼女は、特別な演奏者かもしれませんね。妻と聴いたサティの弾き手も、それは美しい女性でした。昔を思い出して、幸福を取り戻せた気持ちです」

「そのお言葉を伝えましたら、彼女は感激するでしょう」

 しかし、老紳士は首を横に振った。

「この音楽が消えないうちに帰りたいのです。私の、この耳の奥に、胸の中に美しく響いているうちに、眠りたい。彼女には、くれぐれも感謝していると伝えてください。それから、挨拶もなく立ち去る無礼をお許しくださるようにと」

 アレティーノは頷いた。

「ええ。では、お気をつけて」

 そして、彼は店の入り口で待っている、息子らしき人物のほうへと歩いていった。ゆっくりと、確かな足取りで。

「あのかたは、なんと仰ったのですか」

 我慢しきれず、集一がアレティーノに尋ねると、店主は心から嬉しそうな笑顔になった。

「彼女の音楽が耳と胸の中に美しく響いている、いま、そのままに、眠りにつきたい、と。幸福な気持ちを思い出したままで。そして、この感謝と喜びを彼女に伝えて欲しいそうですよ」

 それは、音楽家にとって、演奏者として、なによりも得がたい、最高の賛辞だった。

 耳にして、すぐにかき消えてしまい、形として保存できない音楽を、その胸の中に響かせて大切にいだいてもらえるとは。

 それこそ集一も目指してきたものだ。

「──ねえ、あなた、ご店主?」

 すぐそばから発せられた女性の声に、アレティーノが身を固くした。

「こんなにすてきな演奏が、お酒を飲みながら聴けるなんて。嬉しいわ。だけど、初めてよね、この弾き手は」

 黒髪に、黒々とした切れ長の眼。顔立ちは東洋人だが、言葉は生まれついてのようなイタリア語だった。薄い唇から発せられるハスキーボイスに不自然な発音はない。真珠のように光沢のあるシャツに、黒のタイトスカートを履いていて、いかにも遅くなった仕事の帰りにアルコールを愉しみに来た、といった雰囲気である。

 集一は、彼女の言う内容を理解しないながらも緊張した。ほんの僅かに見て取れた、アレティーノの強張りを感じ取ったからだ。しかし、アレティーノのほうはすぐに対応する。無駄な力を抜いて、ごく自然に。

「たまたまトリーノに滞在している知人の娘さんですから。今夜が初めてであり、最後でもあるでしょう」

「あら、残念ね。これからも彼女が演奏するのなら、明日の夜も寄らせてもらおうかと思ったのに」

 アレティーノの微笑みは崩れない。

「明日は彼女の演奏はありませんが、もしいらしてくだされば、お望みの一杯をお作りしますよ」

「素敵。それは楽しみだわ。それはそうと、あたしも彼女に演奏曲目依頼リキエスタしたいわ。呼んでくださる?」

 さすがにアレティーノも一瞬だけ口元に緊張を浮かばせた。しかし、動揺は見せない。ところが、リキエスタという単語の意味を直感的に察した集一は、思わず息を止めた。

「わかりました。お待ちください」

 集一は無言でアレティーノに訴えかけたが、彼は余裕の視線で退け、きびきびとした動作でカーテンの中に入っていった。

 ピアノが止まり、数秒間が過ぎる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る