第6場 偶然の価値こそ運命にあり(8)
「いけませんわ。そのような大切な品を……」
彼は、にっこりと微笑んだ。
「妻の最期の願いです。
素晴らしい芸術の歓びと感動を与えたもうた方に、その感謝を伝えるために、メダルを渡す。
このメダルが残ってしまったことが残念だと言い残した、彼女の希望は、私が心を揺り動かされた芸術の恩恵に対してメダルを進呈する、そうした出会いがあることでした。ですから、これは恐らく彼女の遺言を果たせる最後の機会であるでしょう。ようやく叶えられて嬉しい限りなのです。
どうか、受け取ってください」
静かな語りのなかに抑えられた熱望を感じとり、結架はそれ以上拒めなくなった。優しい光をたたえた瞳に映るのは、照明を絞った暗い店内でも、孤独を恐れてやってきた人々の賑わいの場でもなく、人生の苦難も歓喜も知り、その恵みに満ちている世界だった。
人々が口にする一滴のワインの中にも、ピスタチオナッツの中にも、神はおられる。
恋人たちが見つめあう中にも、握り合った手の中にも、神は在る。
そして、感動と喜びの対価として贈られる
「……では、あなたと奥さまのために、お望みの曲を弾かせてくださいますわね」
結架の言葉に老紳士は破顔一笑した。
「とても嬉しい、お申し出だ。ですが、残念なことに、私はそろそろ帰らなければ。迎えが来ていますから」
「そんな……。どうしても?」
結架が、メダルを握りしめて老紳士を見つめる。
哀願の視線。
細い銀縁の眼鏡の奥で、灰色の瞳が煌めく。
「あなたはエリック・サティの曲をいくつか弾いていらした。サティの作品に、妻のお気に入りの曲がありましてね。
『愛撫』という曲と、青年期の二つの作品で、『ワルツ=バレエ』、そして、『幻想ワルツ』を、ご存知ですかな?」
途端に結架の双眸が喜びに輝く。
「私のピアノの師は、スカルラッティやバッハ、ベートーヴェン、ショパン、リストと同じほどに、サティを重要な作曲家だと位置づけていました。彼を理解しなくては、近代も古典も完全には理解しきれないだろう、と。ですから、たくさんのサティの作品を学びましたわ」
フランスの音楽院での、厳しくも楽しい日々。
音楽に全身全霊を浸していた。
それを思い出しながら、結架は罪悪感にもがいた日々を胸の奥に沈める。相反する想い。けれど、目の前に彼女の音楽を欲してくれる者がいる。その希望に応えたかった。
「集一さん」
見上げてくる結架の様子をずっと見ていた彼は、会話の細かい内容までは理解できていなかったが、状況の流れについては察していたので、頷いた。老紳士の発言の中にあったエリック・サティという名前と、結架が発した幾人かの作曲家の名前。それらを聴きとって、その意味を悟っていた。
ハンカチを取りだして広げ、微笑む。
「お預かりしましょう」
「ありがとうございます!」
華やかな笑みをこぼし、結架は手のひらの金記章を集一の広げたハンカチに載せた。
朗々と、結架と集一の背後からアレティーノの声が響く。
「それでは、
どうやら、一部始終を見守っていたらしい。
二人が足を止めている様子を見て、すぐさま出てきたのだ。すこし気取った、流れるような動きで丁寧に老紳士を
アレティーノの後ろから現れた亜杜沙が、彼に頷いて、結架とともにカーテンの中に入っていった。
老紳士の前にワインの小さなグラスが置かれる。
それを待ったように、ピアノの音が煌めいた。
ゆっくりと、
ぴったり三秒の空白の後。
明るい無邪気な優雅さが、快活に踊る。
社交界にデビューしたばかりの若い紳士と淑女が、はじめてのパートナーとともにワルツを楽しむような。
屈託のない、瑞々しい律動。
大人の世界の仲間入りをしたばかりの期待に、ただ歓び、胸ふくらませる。
澄んだ和音。
響く明朗。
エリック・サティ独特の難解さは、この曲にはまだ見られない。曲そのものが、とても若々しくて明快だ。形式がないと批判されることの多い彼の作品としては端正な曲である。それでいて彼独特の清澄さを持ち、『ピカデリー』や『官僚的なソナチネ』、『エンパイア劇場の歌姫』といった作品と通じる軽快な主題が魅力的だ。大衆的でありながら、決して媚を売らない。誇り高い曲調をしている。
そう思っていると、結架はエリック・サティの渦に、呑みこまれてしまったようだった。
ワルツの回転に絡めとられ、つづけて鍵盤の上に舞う。
集一が、ぴくり、と、反応した。
昔、母と親しくしている音楽家たちが集一の家に遊びにきて、よく歌いながら弾いていた曲だ。
甘い、熱情に満ちて、恋に酔う歌。
率直な想いを表題に掲げた、有名すぎる曲。
あなたの苦しみを知ってるわ
恋してるのね すてきなひと
あなたの願いを受け入れてあげる
あなたの恋人にして頂戴
分別なんて ふたりには関係ないわ
悲しみなんて なおのこと
この大切な ひとときに 恋い焦がれる
ふたり しあわせなときをね
そうよ ただ
あなたが欲しいの
恋愛において手練れであるとでもいうように強気な言葉。
裏腹に、乙女のように純真な軽やかさ。
後悔なんかしないわ
願ってるのは たったひとつ
あなたのそばで ほんとに すぐ そばで
この人生を生きること それだけなのよ
そして
あたしの心が あなたのものに
あなたの唇が あたしのものに
あなたの身体が あたしのものに
そして
あたしの身体の すみずみまでが
あなたのものになること ただ それだけよ!
情熱を高ぶらせながらも、それを愉しんでいる。
集一は全身をリズムに
そうよ あなたの瞳のなかに見るわ
神さまのくださった約束をね
あなたの愛する心は
あたしの愛撫を求めにくる
永遠に抱き合って
共に炎に燃え
愛の夢のなかで 魂を分け合いましょう
「……すばらしい
アレティーノが呟く日本語に集一は息を止め、それから頷いた。
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