第6場 偶然の価値こそ運命にあり(7)

 やがて、集一は壁の時計を見て、アレティーノに視線を向けた。

「あの。アレティーノさん。そろそろ結架さんを休ませてさしあげたいのですが」

 すると、この店の経営者は結架の奏でる音の波に全身を浸していた喜びから飛びだし、目を大きく見開いた。夢から醒めたばかりのように、まばたきをする。

「ああ──。ええ、そうですね。では、ここで休憩していただけるよう、お呼びしてきましょう」

 集一は微笑んだ。アレティーノを恍惚から引っ張り出してしまったことの埋め合わせをしたかった。

「いえ、僕が行きます。アレティーノさんは、このまま、ここで演奏を聴いていてくださって結構ですよ」

「いや、そんな」

 店主としての立場もあって、彼は集一を止めようとしたが、美貌の青年は身軽に部屋を出て、行ってしまった。

「ああ……」

 すると、都美子が忍び笑いとともに言った。

「集一さまに お任せなさって宜しいではありませんの。きっと、結架さんと離れて、お寂しかったのですわ」

 母親の言葉を聞いて、亜杜沙が、ぱっと振り向く。

「お母さんたら!」

「あら、なぁに?」

 グラスから手を離し、亜杜沙は口を尖らせる。

「あたしのことを、さんざん不作法だとか無遠慮だって言っておいて。自分だって、立ち入っているじゃない」

 すると、都美子は、朗らかに応じた。

「そうね。御免なさい」

「まあ、いいけど。お母さんだって、わかっていたのね。集一さんって、結架さんに夢中みたい! エーレおじさまも、そう思うでしょ?」

「そうかもしれないね」

 穏やかに答えたアレティーノに、亜杜沙が力をこめて断言する。その瞳は歓びに輝いていた。

「あら! 絶対よ。うちのお兄さまは昔から誰に対しても優しいけど、そんなに踏みこまないタイプだもの。それが、こんなふうに近づいていくなんて、あたしが見るかぎりでは、初めてだわ。結架さんが特別なのよ」

 娘の熱っぽい言葉に、都美子が微かに懸念を示す。

「亜杜沙。ご本人に立ち入っては、いけませんよ。貴女の言うとおりでも、第三者が無闇に関わっては、よくないほうに進んでしまうことがあるのだから」

 そう諌められて、彼女は頬を膨らませた。そこまでは、考えていなかったらしい。

「いやだ。いくらなんでも、余計な口出しは、しないわよ。なんだか結架さんって、そういうお節介をしづらい感じがあるし。集一さんを怒らせそうだし」

 不意にアレティーノの表情が曇った。

 不安を隠さない、強張った顔。

 亜杜沙が気づいて、声を上げる。

「エーレおじさま? どうしたの」

「……いや、なんでもないよ」

 そう言いつつ、その、憂いをこめた視線は結架のいるカーテンの向こうに注目している。そこでは、最後のトリルを弾き終えた結架に集一が声をかけていた。

「休憩なさいませんか、結架さん」

 ぱっと両手を胸の前で握った結架が、頬を紅潮させて集一を見上げる。曲への集中を解かれて、一瞬、頭が真っ白になった。カーテンの内側に彼がいつ入ってきたものか、まったく気づかなかった。

「集一さん! でも、まだ、それほど弾いていませんわ」

 反射的に答えたが、よく考えれば一時間ほども演奏しつづけている。ただ、このときの結架は、本当に時間の経過をあまり感じていなかった。

「弾き足りませんか?」

 そう訊かれて、結架は驚いた。

 集一が、その気持ちを察しているとは思ってもみなかったのだ。

 結架の顔に華やかな笑みが輝く。

「はい」

 集一の胸に喜びが満ちた。

「自分でも驚いているのです。ピアノは一生涯、弾けないと思っていましたのに、これほど嬉しいなんて。まるで、許された気持ちです」

 彼女は鍵盤に視線を落とす。愛しげに。

「この喜びを取り戻せたことに、わたし、あなたには、どう感謝を伝えたらいいのか」

 そんな彼女の姿を見られるだけで、集一には喜びだった。

 だから、彼は思わず結架の手をとった。

「では、休憩なさってください。そのあとで、また存分に弾いてください。僕もまだ聴き足りないと思っていますから」

 頬を薔薇色に染めて、彼女は輝かしく微笑んだ。開いたばかりの大輪の薔薇が、自ら散りそうなほどに花弁を開くように。

 集一に優しく引かれた手についていくように立ち上がり、結架は夢心地でカーテンの内から出る。雲の上を歩いているかのような、あるいは幸福の風に舞い上がる羽根になったかのような時間。この歓びに、酔ってしまう。

 ピアノ演奏が止まってから現れた結架が弾き手だということに気がついた者は、いなさそうだった。彼女の演奏を愉しんではいても、ここは、酒場なのだ。あくまでも主役は酒と仲間との会話だ。だから、二人は無防備だった。

 不意に彼女は肩を叩かれて、息が止まりそうなほどに驚いた。思わず、集一の手を ぎゅっと握る。その力に、彼は足を止めた。

「素晴らしい演奏ですね、お嬢さんシニョリーナ。ありがとう」

 一瞬、彼女は返答に詰まった。

 自分ではないと言いたかったが、咄嗟に嘘がつけるほどの余裕がない。

 イタリア語の意味を朧げにしか理解しなかった集一は、凍りついた結架の表情を見て、眉をひそめる。しかし、青褪あおざめながらも、どうにかして彼女が微笑をつくったので、彼は沈黙したまま、張りつめた細い手を握りかえした。

 初老の、品の良い男性だ。眼鏡をかけ、温和に微笑んでいる。

「昔、一度だけ、同じくらい素晴らしい演奏を耳にしたことがあります。ヴェローナのサローネで、妻と一緒にね。彼女は亡くなってしまったが、もしも、いま共にいたら、きっと貴女にこれを贈りたいと言ったでしょう」

 彼は加齢のために細かく震える手をさしだし、結架の右手首をとって、その手のひらの上に金のメダルを三枚のせた。その輝きに驚いて、思わず結架は左手を集一の庇護から抜き出し、もういっぽうの手とともに、落とさぬように包みこむ。

 それを見た集一が息をのんだ。

 日本の五百円硬貨ほどの大きさのメダルには、表に女神像、裏に月桂冠の図案が浮き彫りにされている。

 結架も集一も、貴金属の価値を一目で看破できるほどの知識は持ちえていない。だが、その二人の目にも、この金記章は可成りの値打ちものであるように見えた。

 所有者の説明が、それを肯定した。

「これは彼女の実家から持参金とともに譲り受けたもので、『勝利者のメダル』と呼ばれています。はじめは二五枚あったのですが、妻が幾人かの芸術家に贈呈しましてね。これが最後の三枚です」

 結架の瞳が潤む。

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