第6場 偶然の価値こそ運命にあり(6)
──どんなに遠くにいても……。
亜杜沙は口の中で呟く。数年前、離れて暮らすことが決まったときに、いま隣に座っている母がくれた言葉だ。
『どんなに遠い場所にいても、わたしは貴女の母親だから、気持ちまで離れてしまうことはないのよ。いつも、これからも、貴女の味方よ』
たしかに、ピアニストになりたいのだと打ち明けるまでは、そのとおりだった。
なにも職業にすることはないだろう。それは安定した生活を投げ出してまで求めるほど価値のあるものではない。第一、演奏活動だけで自活していけるだけの本物の才能と技術が亜杜沙に備わっているという確証がないのだ。
胸苦しさに耐えかねた亜杜沙が、ついに声を上げそうになったところで、ピアノは揺れを止めた。各々の内的世界に身を置いていた四人の聞き手は、ほぼ同時に我に返って、両手を叩き合わせだす。左手の指に怪我をしている亜杜沙も、痛みを忘れたように拍手していた。
結架の表情からは緊張と硬直が消え、安らいだ、明るい笑みに変わった。
自分でも驚きだった。
もう、怖くはない。
ピアノの響きが不幸を呼ぶと、罪であると怯えてきたが、こんなにも喜んでもらえるのだと感じたことで、そうした思いは去っていったようだった。もう、誰も傷つけはしない。失うこともない。そう感じた。
──許された。
彼女は、このとき、そう思った。
枷を取りはらわれた捕らわれの鳥が軽く羽ばたいて自分の世界に戻ろうとするように、ピアノに向き直り、楽譜を見つめて鍵盤に指を添わせる。反動をつけるのに、そっと指を持ち上げ──。
柔らかな一音が歩を進め、和音が後に続く。
エリック・サティ作曲、ジムノペディ第一番、第二番、第三番。
数年前には毎日、この曲を弾いていた。結架の記憶に残る昔日の光景は、オーガンジーを被せたように霞んでいる。
フランスの音楽院で学ぶようになって初めての試験の課題曲。練習を積み、その出来栄えには、わりと自信があった。ところが、それは結架の欠点を浮き彫りにしたのだった。
「貴女の音には豊潤さが足りない。もっと苦しみなさい」
自分宛ての手紙を投函した、サティ。
『先生、時間です』
それだけを未来の自分にあてた作曲家。
彼の表現は、結架にとって、感情や精神の理解を超越している。ただ、ファンタジーと呼ぶには複雑すぎて、非常に難解だった。
月の光に浮かぶ、鏡の湖。そこには生き物は棲めない。清らかすぎる水には、なにも含まないから。
結架はジムノペディを弾くとき、そうイメージする。
サティは整理整頓が苦手だったが、それは日々、処理している情報が膨大すぎたからだと結架は思う。頭の中の整頓に明け暮れていたからだ。部屋のことまで面倒みきれないほどに。
楽譜に独特の絵図と散文を書きこみながら、空のピアノの中に未開封の手紙を詰めこんだ彼は、大切なことを忘れないよう、自分に手紙を投函したのだ。それが同じ仕立ての七着のスーツ、一〇〇本ほどの蝙蝠傘、謎めいたメモや、がらくたとともに残された遺品となった。
過去から、未来へ。
自分が自分に与えられるのは、それだけだ。
結架の指先と表情に、ゆとりが出てきた。ピアノに触れるだけでも楽しかった、少女のころの気持ちが帰ってきたように。ひたすらピアノとともに響きわたった。長い空白期間の後遺症など、もう、その演奏の何処にもありはしない。
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー作曲、『四季』作品三七より、一〇月『秋のうた』。
──舞い散る葉の かさついた音。
一二月『クリスマス』、つづけて一月『炉ばたで』。
ピアノ演奏にのめりこみながらも、結架は聴いた。
人の声、声、声。忍び笑い、甘い囁き。駆け引きの会話。ねぎらい。皮肉。冗談。弁舌。賑わう空気。
動く影、影、影。ゆるやかに近くを横ぎる、盆を手にした人。男性。女性。グラスの中で溶けていく氷が立てる、涼やかな音。シェーカーまでが拍手する……。
フレデリック・ショパン作曲、夜想曲の第八番、変ニ長調。ワルツ一二番、ヘ短調。一八番、変ホ長調。
ピアノの音が、心地よく広がっていく。しかし、舞台で感じることのある厳しい視線は皆無だ。ただ、穏やかに響く音楽。
ついさっき、初めて楽譜を目にして心惹かれた現代作曲家のムードたっぷりの楽曲に跳び移る。歌手がいたら喜んで歌ってくれるだろう、甘いカンツォーネ。日本で弾いたり口ずさんだりしたら、きっと叱られてしまうのに違いない。そう考えて、結架は小さく笑みを浮かべた。
でも、ここでは、自由なのだから。
音楽とは、本来、こうであるべきだろう。
音を楽しむ。
音で楽しませる。
快い響きに身を浸し、人生を豊かに彩る。
それを大勢と分かち合おうとするのが、演奏家なのだ。
結架は、決して客たちの会話の邪魔にならないよう気をつけながらピアノを弾いた。これは、演奏会ではない。店内の壁に掛けられた絵画や、テーブルに置かれた小さなランプと同じ。必要ではあるが、無くとも支障のないもの。けれど、あれば、場が華やぐ。サティが大切に生みだした、音楽の、ひとつの役割。当然のように存在するけれども、場の中心にはならない。
しかし、騒めきながらも耳を澄ませている聴衆はいるようだった。ときどき、目を閉じて演奏に聴き入る。グラスを手にしたまま、それは幸福そうに。
集一も、そうだった。
店内の客たちが立てる、さまざまな音の中にも、彼女の演奏は澄んでいた。彼の音楽家としての耳は、しっかりと聞き分けている。どうやら亜杜沙も同様のようで、手にした果汁入りソーダのグラスを傾けつつも、耳はピアノの音を注意深く拾っていた。
結架の希望で、普段より照明が落とされた店内は薄暗い。そして、ピアノに一番近い場所にあったテーブル席は片づけられている。さらに、生演奏がないときに使っているカーテンが、今日は閉められている。演奏中の結架の姿は誰にも見られない。それも、彼女の希望だった。
アレティーノは、内心はともかく、表面上は微塵も抵抗することなく、彼女の要望すべてを受け容れた。大きなホールで聴衆から報酬を得て演奏をしている人間が、酒場で勝手に無料演奏をしたら、迷惑する者たちも存在するのだ。そうした配慮は、当然、必要だった。
そして、彼は集一たちを壁で遮られた席に案内した。とはいえ、マジックミラーを填めた窓があり、かつ天井近くは壁が途切れているので、窓越しに店内は見え、音も室内に届く。気軽に来れる高級志向の店を目指したアレティーノが設計した、特別な席の部屋だった。人目を意識せずに寛げるようにと設けたのである。といっても、使用するのは久しぶりだ。
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