第6場 偶然の価値こそ運命にあり(5)
次に彼女が弾いたのはピアノ・ソナタ第一四番の第三楽章だった。月光と呼ばれるピアノ・ソナタ。第一楽章で、その重々しくも抑えた情熱が、第三楽章では爆発するのだ。リストの曲と同じほどに長い時間、細く長い指が、目まぐるしく鍵盤を疾走する。激しさと繊細さの交錯。子どもの頃は流石に運動力が追いつかなかったものだが、今では弾きこなせた。
その凄まじい気迫で、彼女は自分の心の中にある不安や恐怖、自責と後悔に立ち向かった。
許しを求め。
救いを探して。
絶望すら輝かせる、ベートーヴェンの魂の音楽で。
アレティーノを、都美子を、亜杜沙を、そして集一を、助けることになるのだと信じて、弱い自分と闘う。
「すごい……迫力……」
亜杜沙の声はかすれている。
都美子もアレティーノも、集一も、言葉を失っている。
熱烈の中の、時折に現れる匂いたつような品格。妖艶とも思われる、優美。その、激しさ。
チェンバロではありえない、荒々しいほどのタッチ。それでも最後の和音まで、全く持久力を衰えさせない。聴いている者まで指先が痛む気がしてくるような、強く叩きつける音。爆発的な響き。訴えかけてくる旋律。魂の叫びを乗せた、美しい和声。
優しい旋律の隣で、彼の精神が注ぎこまれた和音は荒く、攻撃的なほどだ。
疲れ果て、言葉も消え、それでも誇りたかく佇む。
再び情熱的なショパン。一二の練習曲のなかから今度は作品一〇の第四番、嬰ハ短調だ。
これほどの力強さを備えた美麗が、何故、ときに儚げに響くのか。火花の散るさまを見せられるようでいて、その閃光の一瞬の哀切が、胸を締めつける。
蒼白だった結架の頬は、いまや上気していた。
そして、彼女は、かつて愛し、喪った者たちのために避けながらも欲してきた曲に指を伸ばした。
組曲、第二番、ヘ長調、アダージョ。
癒しの曲。
これまでの超絶技巧的な曲とは違う。やさしく、そっと撫でるような旋律だ。
細く抑えた嘆息が三人の唇から漏れた。
魂を撫でる曲。
結架が最初に弾いて耐えられなくなった曲と同じ作曲家、ハンドルの作品だ。日本にいた頃の彼女は、この曲をチェンバロでは弾けるようになっていたが、ピアノでは、どうしても弾けなかった。
求めに応じてピアノの前に座っても、あのサラバンドのように、途中で指が止まってしまう。この曲は、弾こうとすると最初の一音すら、奏でられなかった。
いくつもの心の傷のうち、まだ、赤々と血を流している場所。それが、この曲だった。
派手な難曲を次々と弾いていた結架の額には苦悶がある。しかし、この鍵盤組曲を演奏し始めてからは次第に表情がやわらかくなり、イエスを抱くマリアのような微笑みが、その典麗さを高めた。
集一まで痛みを感じるほどに引き絞られていた心に、あたたかで、こころよい波が打ち寄せる。
──ああ、彼女のチェンバロでも、聴きたい。
集一は渇望の先にあるものを自覚し、密かに身を硬くした。音楽の快楽には、たしかに許されるべき罪がある。
かつて彼は結架の奏でる音に触れ、音楽を官能だとして禁じる宗教的な動きがあることに心から納得した。まだ、未熟だったとはいえ、その一瞬の触れ合いが彼の進む道を変えたのだ。
哀しいほど優しい。
優しすぎて哀しい。
引力をもつ音があるとしたら、それは、彼女の指が生みだせる、この音だ。魂を捧げてしまいそうなほど狂おしく昂ぶる、精神の発熱。
三人は
──この時間を閉じこめてしまいたい。
喜びを永遠とするために。
集一は切に
──この響きの空間そのものを固めることが出来たなら。
芸術と科学の神にとりわけ寵愛された、偉大なレオナルド・ダ・ヴィンチによると、音楽とは、あらゆる芸術の中で最下層に位置するのだという。それは、ひとつのフレーズとそれによる感動を、長い時間、人間の感覚に留めることが出来ないから、だそうである。またたく間にかき消えて、心の躍動を保つことが困難だから。一瞬にして色褪せて、何をしても触れられない。絵画や彫刻のように同じ形象を眺めつづけて心で味わうことが出来ない。
たとえば虹や、花火や、流れ星のように。
しかし、響きが固まれば、自ずと音は消えてしまうだろう。もしくは膨大な和音が重なって、旋律のない、ただの揺れの集合体となってしまうのに違いない。けれど、水の凍った結晶のように、何か美しいものが見えるようになるのかもしれない。
それは、光るだろうか。
それは、あたたかいだろうか。
それは、綺羅めくだろうか。
それは──愛しいだろうか。
音としての一瞬よりも、心躍るものだろうか。
──見たい。
そして、触れたい。撫でたい。抱きしめたい。
形としての妙なる響きを?
──音としての彼女を。
迷いも躊躇いも、疑いもない欲求。そして、思い出す。つい先程の出来事の、幸福そのものの感触を伴って、記憶は鮮やかに甦る。
とけそうなほどにやわらかで、たしかに活き活きと、あたたかく、それでいて儚くかぼそい、結架の身体。
気が違いそうなほど簡単に失ってしまうだろう、かよわい雪のような存在。天から降り、地に溶けて、見知らぬ何処か彼方へ去ってしまう。そばにありつづけることを望むのなら、極寒の中に身を置かねばならない。
──それでも。
甘美な響きに包まれて、メランコリックな空気が店内に広がる。
それぞれの過去に閉じこめた、心沈める悩ましい記憶が、五人の瞼を重くした。集一は眉間に指をあてる。そうしなければ、深い皺が寄ってしまうのだ。
『あなたに逢うことの喜びは、消えてしまったわ。逢えても苦しいだけ。わたしの一人芝居だと気づいたときから、決めていたの。さようなら』
『さようなら、小さな愛しい子。私の大切な子。いつか、この人生が終わるとき、迎えに来てくれるのでしょう?』
『迎えに来て。いいえ、だめ。二度と会えないわ。逢わないほうがいいの。私と貴方は一緒には生きられないのよ、エーレ。もしも、その結末を変えられる何かが起きたら、連絡するわ。でも、無理でしょうね。これが最後になる筈よ』
それぞれの別れ。
悲しい記憶。苦しい記憶。つらい記憶。
どこに行ったかも知らない人。
永遠の眠りについた人。
海の彼方に去り、空の彼方に消えてしまった、愛する人。
『私と過ごした時間のことは忘れても、私の存在だけは、憶えていて。私への想いは失っても、私の貴方への想いだけは信じていて。それが、私と貴方を結びつけていてくれるから。どんなに遠くにいても、私たちは同じものを知っているのだから』
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