第6場 偶然の価値こそ運命にあり(4)

 思わず腰を上げ、声をかけようとした瞬間。

 静かな和音が弾けた。

 清らかな音の粒。

 澄みきった泉から、すくいとっては流れ落ちる、水晶の雫。

 やさしい、そして残酷な歴史を語るような旋律。容赦なく人間の過ちを並べる、天使のように美しいアルペジオ。

 重々しい主題を軽やかに弾くよう要求する絶妙なテンポ。

 GジョージFフレデリック.ハンドルのハープシコード組曲、第二番。サラバンド。

 厳格でありながら華やかな宮廷に身を置くことを選んだ作曲家、ハンドルの精神の複雑さを感じる。彼はイギリス王宮で宮廷音楽家として破格の待遇を受けることに誇りを持ち、本来の雇用主であるハノーファーの選帝侯からの再三にわたる帰還命令に逆らいつづけた。この国イギリスは、さまざまな事情と、信念と打算から選んだ居場所だったが、彼を高額な年金と熱烈な称賛で引きとめたアン女王が亡くなり、長い間の休暇で楽長としての責務を散々蔑ろにしてきたハンドルは、ジェームズ一世の血を引くプロテスタントとして、新しい法律まで立ててイギリス国王となされたハノーファー選帝侯に対し、どれほど慌てたことだろう。よりによって、と、思っただろうか。

 しかし、有名な『水上の音楽』組曲にまつわる伝説──王のテムズ川での船遊びを世紀の傑作で華やかに輝かせ、その不興をやわらげ、怒りを解いた──は、じつに面白い創作だ。誰の作によるものかは不明だが、まことしやかに語られてきた、このエピソードは、事実ではない。

 実際のところジョージ一世、つまりハノーファー選帝侯自身は、帰還命令を出し続けたわりに、音楽にもヘンデルにも、さしたる感情がなかったようで、あっさりと彼をハノーファー時代と同じく宮廷楽長として置きつづけた。

 だが、イギリスでは、ヘンリー・パーセルの次に現れた偉大な作曲家として熱狂的に民衆に愛され、讃えられたようだ。なかには、矢張り彼がドイツの出自であるということを忘れない者もいたというが。

 結架の、あの細い指から、こんなにも強い、ハンドルの揺るがぬ意志が込められた和音が響くとは。

 全員が息をのんだ。

 落魄した豪奢な造形物ほど切ないものもない。

 高まる寂寥感。緊密になる、音の連なり。麗しい過去を語る、甘い旋律。繊細なタッチが、輝く音を生む。

 ところが。

「……っ!」

 突然、クライマックスに向かう噴出する音が途切れた。

 残響が美しく、次第に消える。

「結架さん?」

 前触れなく鍵盤から手を離した結架は、右手を左手で押さえて背を丸めた。苦痛に堪えるように。

 鍵盤が熱された鉄板のようになり、火傷でもしたかのような反応だった。

 精美な演奏に気を取られていたが、結架は蒼白な額に、うっすらと汗まで浮かべている。

「ゆい──」

「大丈夫、です」

 集一が声をかけた瞬間に、震える声が答えた。

 指を組み、外し、もう一度組んでから、顔を上げる。

 どうにか彼女は微笑みをつくった。

「ごめんなさい。久しぶりですから、つい、指が反応してしまって。チェンバロでは、こうしたタッチを使うことはないので、少しずつ強くしていく曲が良いかと思ったのですけれど……。曲を変えますね」

 アレティーノが怪訝そうな顔をした。彼も、結架がピアニストであると信じていたらしい。亜杜沙が、つい先ほど結架自身から聞いた話を、ごく簡単に、かいつまんで小声で説明しだす。

 集一と都美子が、それぞれ自分の呼吸の音も抑えようと緊張する中、結架は指を鍵盤に添わせた。その指先をしばらく凝視して、やがて僅かに顎を逸らし、深く長く、ひと呼吸する。

 小さな一音から、混ざり合う美しいアルペジオが放たれた。

 フレデリック・フランソワ・ショパン作曲。一二の練習曲、作品二五、第二番、ヘ短調。

 優雅でロマンティックに、しかし激しく歌い上げる旋律。右手の流麗な転がる旋律を時に寸断する、左手の動き。右手を追う、左手。目指す先は同じなのに巡り逢えぬ悲劇を紡ぐかのような。

 訴えかける、熱に浮かされた、高潔な愛。マジョルカ島での恋人、ジョルジュ・サンドとの愛は、病の中のショパンにとって縋るようなものであっただろう。そして、その結果、彼の魂は逆に孤絶を深めた。執着と、戸惑い。そして、彼女との愛の終わり……。ショパンの生涯に広がる影を、アレティーノは思い浮かべる。

 夢の終わりを暗示させる、最後の旋律。名残り惜しむ音。

 静かに閉じ、短い静かな呼吸。

 一瞬の後。

 突然の、爆発的な和音に、全員が身体を硬くした。

 超絶技巧練習曲、第四番、ニ短調。『マゼッパ』。

 フランツ・リストの、陶酔で始まり恍惚に終わるような名曲だ。途中で挟む、すこしトーンダウンした中間部も、陶然と音楽に浸る巧みな指さばきを必要とする。

 しかし、その演奏には、相当に高い集中と、非常に冷静で計算的な運指への気配りが必要とされる。少しでも、その指が乱れれば、途端に響きに濁りと狂いが生じてしまうのだから。

 はじまりの主題に軽快さを持たせつつ、優美さと荒々しさを同居させた、いかにもリストのピアノ曲という作品である。

 先ほど握った彼女の手は、それほど大きくはなかった筈だというのに、否、むしろ少女のように小さな手だったが、細密でありながらダイナミックな演奏は、身震いするほど完璧だ。

 燃え上がる情熱が、鍵盤の上で光り輝いた。

 どうしたら、こんなにも燦然と、ピアノの音のひとつひとつがダイアモンドのように輝くのか。

 鍵盤を叩くのは、銀を鍛えているとでもいうのか。

 可視光線の反射率は金属中で最大といわれる白銀。ダイアモンドにも劣らない輝き。しかし柔らかで、純銀では、あまりに傷つきやすい。

 はじかれる主題の、唐突な終結。そして、戸惑い。

 終わりの刻を告げる鐘が鳴る。

 しかし、彼女は休まなかった。

 息つく暇もなく、もつれそうな指づかいのソナタ。

 かつて、結架が一番の得意としていたベートーヴェン。

 ピアノ・ソナタ第三〇番、ホ長調、作品一〇九、第二楽章。さらに続けて、第一三番、変ホ長調、作品二七の一、第二楽章。

 なんという気品に満ちたベートーヴェンであることか。彼の苦悩も、歓喜につながる道筋であると歌う。音楽家にとっては絶望的な障碍を耳に負った彼が、自らの中に生まれる、美しい響きを、果たしてどれほど完全に表現なしえたのか……。亜杜沙の胸に切ない想いが渦巻いた。自分の力だけではどうすることもできない不幸に立ち向かうことの、あまりに痛ましい孤独。

 静かさの中に、あつく燃える情念。

 結架にとって、この曲は、幼いころ父親の指導のもとに毎日弾いた曲だ。

 子どもの体力で激しい演奏は負担が大きい。しかし、これらは二分ほどの長さなので、単独で弾くのは幼児にも可能だった。その技巧的な演奏は、ともかく。

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