第6場 偶然の価値こそ運命にあり(3)
彼は、自分の心に忠実で、しかも、こちらが考えるよりもはるかに思慮深そうだ。人の言葉を鵜呑みにせずに、奥に隠れた本質をも見つめようとするのに違いない。嘘は言わずとも、嘘の存在は認めている者の目である。
集一に、そんなふうに評されているとは夢にも思わず、アレティーノは背後から紙束を取り出した。見ると、手作業で製本したらしい、表紙つきの書写譜だった。個人が作ったのか、裏表紙には『R.O』という飾り文字が入っていたが、だいぶ古くなり、端が擦り切れている。
「これが楽譜です。サティとショパン、それから、チャイコフスキーの曲集を用意しておきました。イタリア歌曲の古典も、いくつかあります。勿論、ほかにご希望があれば、伺いますよ」
「はい」
作曲家の名前を読み上げながら、店主はテーブルの上に楽譜を並べていった。曲名が目に入ると頭の中で曲が鳴り響く。まったく無意識に指が鍵盤を叩くイメージが浮かび、結架は初めて触れる曲と慣れ親しんだ曲とを、それぞれに自分の中に響かせた。
「店を開けるのは七時ですから、あと一時間ほどですね。演奏は八時ごろからで。お疲れになる前に休憩していただいて構いません。生演奏目当ての予約客は八時三〇分までには到着されるかと思います。一〇時には演奏を止めていただいて、あとは、お時間の許すかぎり、寛いでください」
優しい語調に、結架は心が落ちついた。
「はい。ありがとうございます。いくつか、楽譜にはない曲を弾かせていただいても、大丈夫でしょうか?」
アレティーノは結架の提案した曲を全て知っているらしく、そのどれにも頷いた。
「ええ、大丈夫。ご自由になさってください。演奏に関しては、すべてお任せします。ところで、何か他にもご質問やご希望はありますか?」
待っていたとばかりに、結架はいくつかの要望を口にする。その全てをアレティーノは受け入れた。どちらの側にも妥協はなく、契約が成立する。ただし片方にとっては、そもそも契約ですらなかったが。
「さて……。まだ、時間がありますね。なにか飲み物を用意しますよ。ご希望のものを」
背を向けようとしたアレティーノに、結架は少し慌てた。
「あ、あの、出来れば練習をさせていただけませんか? 音を確かめておきたいのです。響き具合と、
初めて弾くピアノの特性、そして、店内にどう響くのかを確認しておきたかった。それは、初めてホールで演奏することが決まったとき、ステージで父が最初に結架に教えたことだった。ピアニストなら、誰もが当然のように知っている。ピアノは、いつでも、どこへでも自分の楽器を運べるわけではないのだから。
──どんな子を弾くのか、把握しなくては。鍵盤の重み、
アレティーノは一瞬だけ表情を固まらせたが、その変化に皆が気づく前に、ふわりと微笑みを浮かべた。都美子だけは、わずかに起きた彼の動揺に気づいたが、黙って成り行きを見守った。
「──ああ、それもそうですね。それでは、こちらへどうぞ」
以前に来たときとは反対側の
ピアノだけの生演奏ではなく、
結架は楽譜を壁際の台に置き、ピアノの前の椅子に腰を下ろす。フット・ペダルが四本。イタリアが世界に誇るファツィオリ社独自の機構だ。全てのファツィオリについているわけではないものの、ヴェネツィアの師が所有していたのと同じ、イタリア生まれのピアノ。それに励まされる。しかし、それでも無意識に震えそうになる手を落ちつかせようと、両手を強く握りしめた。それから、椅子の張りつめた革の感触と、その下のフェルトの柔らかさへ意識をこらす。そうしなければ、恐怖が音もなく、ひたひたと、心に波のように寄せてきそうだった。
近くのテーブルから、亜杜沙の小さな声が聞こえた。
「夢みたい。結架さんのピアノが目の前で聴けるなんて」
集一は、亜杜沙の声にある情熱に引っかかるものを感じた。
「亜杜沙ちゃん? きみ、彼女のピアノを知っているのかい」
グラスの中のソーダに浮かぶ氷よりも、亜杜沙の瞳は輝いていた。
「小さいころ、結架さんのゴルトベルク変奏曲が、あたしの子守唄だったわ。いつからか、寝る前にCDを流してくれていたの、ずっと。それで、こんな演奏が出来たらなって、憧れてた。
だから、怪我をして、今夜あたしが弾けなくなったのはショックだったけど、お母さんから、集一さんが結架さんを連れてきてくれるって聞いて、ものすごく嬉しかったのよ。ゆうべ眠れないくらい。一晩中、CDを聴いちゃったわ。
もうピアニストじゃないなんて、知らなかったけど。でも、いまこうして演奏が聴けるなんて、なおさら貴重なことよね。しかも、こんなに綺麗なひとだったなんて」
それは、集一も感じていた。
共演が決まった日。彼は、手に入れていた結架の過去の録音を、すべて聴いた。ピアノからチェンバロまで。亜杜沙のお気に入りだというゴルトベルクも。あれは、結架が一四歳のときのピアノによる録音だ。そして、友人の家では、コンクールの録音まで聴いた。幼さからくる、純粋な演奏。しかし、老練にも聞こえる技術。
彼女がピアノからチェンバロに転向したのは十代後半の頃で、以降、公の場でピアノを弾いたことは、一度としてない。録音もない。
理由に関して具体的なことは語られなかったが、彼女が何らかの心の傷を負ってピアノから離れたことは確かだ。つまり、よほどのことがなければ、彼女はピアノを弾かない。
そう思い至って、集一は顔が冷えるのを感じた。そして、頭から血の気が引き、背筋に氷を含んだ冷水を流されたかのような感覚に襲われる。
──弾かせていいのだろうか。
彼女の心にある、かつて音楽を失いかけたほどに重い傷は、いまピアノを弾くことで、深くなるのではないのか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます