第6場 偶然の価値こそ運命にあり(2)
「……そうですわね。無理に決まってますわ。いくらなんでも明日の夜だなんて急すぎますし、第一、集一さまのお知り合いでしたら、酒場で弾いてくださることの出来る方なんて、おられる筈がないですものね……」
驚きを抑えた集一の声と、一瞬の沈黙に、都美子は我に返ったようだった。
「無理なお願いを致しまして、申し訳ないことでしたわ。わたくし、まるで正気を失っていたみたいですわねぇ。今のお話は、お忘れくださいませ」
都美子が自らに向けて微かに憫笑するのを聞きながら、集一は全く反対のことを考えていた。
忘れろ?
酒場でピアノを弾いてくれる人などいない?
それは、そうだろう。
ここは学生時代の人脈が暮らす場所ではない。
そばにいるのは、誰もが歴とした職業音楽家だ。
仮に集一が彼らにそんな話を持ちかけたら、嘲笑われるか、軽蔑されるか、憤激させてしまうか。或いは困却させてしまうか。いずれにしても、誰も本気で応えてはくれないだろう。誰一人、耳を貸してなど、くれやしない。そう、思ったことだろう。今までなら。しかし。
一人だけ、真摯に聞いてくれる人がいる。
随分な空頼みだ。しかし、それでも真剣に考えた上で断ってくれるだろう。彼女ならば。その後の関係にも、影響があるとは思えない。そういう意味では安心感を与える女性なのだ。だから、あの甘い、清冽な泉から聞こえるような声を聴けるのであれば、電話をする大義名分としてだけでも、集一は手放したくはなかった。
──もし、断られなければ……。
集一は心の声を振り払う。結局それは失敗に終わったが、彼は出来る限り、耳を塞いだ。いま、このときだけでもと言い聞かせつつ。
「少しだけ待ってください。引きうけてくださる可能性は、かなり低いですが、お願いだけはしてみましょう。このあと、すぐに、電話してみますから」
都美子に音楽家への諦観という偏見を植えつけることになるのも厭だ。
「そうですか! 本当に、ああ、嬉しいですわ、集一さま。ですが、無理なさらないでくださいましね。知人も……」
──。
「いやあ、しかし、本当に綺麗な方だ。集一くんと並んでも少しも不自然ではない。珍しいほどに。言うなれば金銀の対か。サファイアとルビーかな。いや、珊瑚と真珠……ふうむ……それとも
深く穏やかなバリトンが、集一を記憶の底から引き上げる。
つい、数分前。開店前の店内に入ると、店主に都美子が集一を紹介し、結架を集一が紹介した。店主は集一を見て感嘆の息を漏らし、結架を見て驚嘆の声を上げた。
「貴女は……」
その驚きが和らぐと、彼は集一と結架を同時に褒めそやしたのだった。なんと、日本語で。
「そんな、私など」
結架は俯き、指の震えを止めようと、腰のあたりで両手を組み合わせる。
「謙遜なさらずとも、結構。わたしは思ったことを率直に申し上げる
謙遜、率直、申し上げるにとどまらず、それはさておき、光栄、つくづく……とまできた。イタリア人である、彼の流暢な日本語に、結架と集一は瞠目した。語彙の豊かさ以上に驚異的なのは、発音と抑揚の正確さ、美しさだった。
その絶妙な言いまわしに視覚と聴覚が混乱したのか、結架も集一も、反応に困るようだった。
彫りの深い欧州人の顔についた唇から、生粋の日本人のような日本語が流れでる。その違和感にすっかり慣れている都美子が、間を見計らったように、
「あら、結架さんはイタリア語の素養もおありでしてよ。そうですわね、集一さま?」
結架の目が集一に向く。彼女の心を読んで、集一は素早く答えた。
「『ツバキ』で食事をした際、カルミレッリにイタリア語で料理の説明をなさっていたでしょう。それを都美子さんが聞いておられて、僕に尋ねてこられたのですよ」
「おや、そうですか。イタリア語が……」
濃い褐色の大きな瞳に、穏やかながらも喜びの光が輝く。
亜杜沙が黒髪を揺すって、大きなため息を吐いた。
「凄い。あたしなんて、日常会話ていどなら何とか出来るようになったけど、料理の説明なんて、イタリア語じゃあ、無理。英語で精一杯だわ。一能に秀でた人って、やっぱり、どんなことでも凡人とは違うんですねぇ──」
心から羨ましそうな、無邪気な亜杜沙の仕草に、いつもなら慌てだす結架も、よろけずにすんだ。悪気のない小さな笑顔がはじけ、色素の薄い髪がさらさらと揺れる。
「……たしかに。だからこそ、嬉しいですな。貴女のように
恥じらいから生じた困惑を澄んだ瞳に浮かべつつも、唇からは笑みを消さず、結架は求めに応じて握手する。
「こちらこそ、宜しくお願いしますわ。ええと……」
「おお、お美しさに見蕩れるあまり、名乗るのを忘れてしまいました。とんだ失礼を。
わたしは、ガブリエーレ・アレティーノと申します。どうぞ、お見知りおきを」
彼の動作が道化師のお辞儀のように見えて、結架は忍び笑う。陽気な人間と接すると、緊張は氷が溶けるように
「迚も楽しい方ですのね、アレティーノさん。安心しましたわ」
「わたしも安心しましたよ。貴女のお人柄が、非常に
アレティーノの用いる日本語に初めて微妙な調子があらわれた。初対面で相手を褒めるとしたら、そして、それが結架であれば、彼女の優雅な振る舞いや気品漂う様子を取り上げるだろう。単純に素敵な女性と言い表すことも出来る。一晩のピアノ奏者に対して人柄までをも期待しているものだろうか。
そのとき集一は都美子の言葉を思い出した。
〝知人も、人生の例外を受け入れられない人間ではありませんから〟
──え?
〝真実に誠実ですが、その真実が必ずしも世間の人たちのそれとは一致していない人の特徴ですわ。何ものにもとらわれない、本当の意味で自由な人です。世間一般の評価ではなく、自らの判断する評価を大切にします。そのために、ときに彼特有の発言がありますが、そこには彼なりの深い意味があるようなのですわ〟
実際に会い、こうして接してみると、都美子の言ったことが解ってくる。
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