第6場 偶然の価値こそ運命にあり(1)

 ──なんの音だろう。

 何かが回転しているような音。この音を聴くと、いつも、そう思う。上下の音、或いは左右の音を、続けざまに繰り返している。

 ──ああ……。

 電話の呼び出し音だ。

「こんな時間に……」

 ゆっくりと目を開けた。二回目の瞬きと同時に起き上がる。

 大理石の床に降りそそぐ優しい陽光。鎧戸から漏れた、その光には、朱が強い。

 寝台から離れ、西側の窓の鎧戸を開けた。見慣れてきた黄褐色の街並みが赤みを帯びて、毎日見ても幻想的な景色を作り出している。ほんの一瞬だけ、景観と光の演出する力によって命の存在する証しは霞み、窓枠の中に広がる都市をキリコの絵画に封じこめたかのように見えた。住人を忘れた街。

 たった一秒にも満たない、しかし強烈な感覚が去ると、たちまち音と現実が戻ってくる。

 ──夕陽。

 眠りに落ちた時間から考えれば、丸一日が経ったのではないかぎり、今は七月一六日の午後八時ごろ……だろう。

 時計を見ると、八時二〇分を過ぎたところだった。〝こんな時間〟などと思ってしまったが、それは、先方の言うことかもしれない。

 軽く自嘲しつつ、受話器を取り上げた。

「はい」

 丁重な、もしくは慇懃無礼な物言い。そのどちらかの、いずれにしても男性の声が聞こえてくるだろうという彼の想定は外れた。それも、それは見事な外れようだった。

「集一さま? あら──もしかして、眠っておられましたところを、お邪魔いたしてしまいましたのでしょうか……?」

 そんなに眠たげな声だっただろうか。集一は苦笑する。

「いえ、大丈夫ですよ、都美子さん。それより、どうかしたのですか。まさか、また父が、なにか──」

「まあ、いいえ! 誠一さまとは全く関係ございませんわ。ただ、その……じつは、集一さまに、お力添えをお願いいたしたいことがございまして……」

「どうしたのです?」

 怪訝さを押し殺して問う。彼の父とは無関係に、都美子が自分に何かを頼んでくるなど、初めてのことだ。一体、どんなことだろう。

「亜杜沙が──」

「ああ、亜杜沙ちゃん。そういえば、もう、こちらに来ているのですね」

 都美子の一人娘である亜杜沙は一六歳になったばかりであり、現在は父親と日本で暮らしている。

 五年前、母親である都美子がイタリアの日本料理店で女将を務めることになったとき、彼女は夫との相談の末、娘を父親と日本に残すことに決めた。以降、亜杜沙は夏や冬の長期休暇にはイタリアに来て、日頃の手紙や電話では出来ない母子の交流をし、半年間に生じた空白を埋めている。それは、今年も同じ筈だが……。

「ええ、二日前に。ですが……」

 集一は、少し緊張した。

 一年前から、都美子と亜杜沙の間には、細いが深い亀裂が生じている。将来は音楽家になりたいという亜杜沙の夢に都美子が反対したことから娘に母親への反感が生まれて、二人の関係に影を落としているのだった。どんなに寛容な人間であっても、自分の子どもの未来に関しては神経質になるらしい。

 他人の目から見れば表面上は何も変わってはいないのだが、矢張り小さな齟齬でも家族にとっては大きいようだ。

 集一にまで電話してくるということは、只事ではない。

「亜杜沙ちゃんが、どうかしましたか」

「それが……あの子、突き指をしてしまいまして……」

「はい?」

 気が抜けたあまり、受話器を握る手の力を失いかけた。しかし、都美子の声は相変わらず深刻そうである。

「それも、かなり酷く傷めたらしくて、鎮痛剤を服用しても痛いと申しますの。右手の親指ですから、使わないわけにいかないのです」

「それは──大変ですね。大丈夫ですか? 夏の人手が足りなくなって、一昨年前から亜杜沙ちゃんにも、お店を手伝ってもらっていると仰っていたと思いますが」

 影響があるとすれば、そのことだろうと推測したのだが、それに返ってきた声は、それほど低くはなかった。

「そのことでしたら、ご心配には及びませんわ。従業員を増員したばかりですから。問題なのは、他所さまから頼まれたことですの」

「頼まれたこと、ですか。亜杜沙ちゃんに?」

 集一は都美子が電話をしてきた理由を悟りつつ、彼女の説明を待つ。

「はい。わたくしの知人に酒場を経営しております者がありまして。うちの店で酒類の扱いを任せている者の所縁ゆかりで親しくなったのですけれど……あ、いえ……それはともかく、その知人が、突然に来られなくなってしまったピアニストの代理を探していましたので、わたくし、娘のことをお話しいたしましたわ。それならば是非、亜杜沙を、と、仰いましたのよ。それなのに、わたくし、亜杜沙にぶつかって、突き指なんてさせてしまって」

 運の悪いときもあるものだ。ぶつかっただけで突き指とは。

「ピアノ演奏を中止するわけにはいかないのですか? たとえば、録音されたものを流すとか」

「それが、公私ともにおつきあいの長い、お得意さまに頼まれたそうなのです。この日だけは、必ず生演奏で、と。大切な仕事の取引関係にある、お客さまをお連れになるご予定だとかで、その方のために、と。

 もう、わたくし、どうすれば良いのか。

 お願いいたします、集一さま。集一さまに演奏していただくことが出来ればと、思いついたのです」

「僕──ですか──?」

 思わず声が暗くなる。

 たしかに、肉体的に幼児には難しいオーボエよりも先にピアノの奏法を学んではいる。しかし、それはあくまでも和声や読譜、表現の勉強としてやってきただけで、修得できたとは言い難い。さらに、長じてからは副科の試験前後にしか弾いていないので、つかえることなく一曲を弾きこなすのも、自信がない。私的な場所で、自分が楽しむためになら、弾くことはあるかもしれない。しかし、都美子の望むような水準の演奏は、とても無理だ。

 酒場での演奏とはいえ、接待相手のためという要望があるということは、すくなくともピアノを専門にしている奏者の技量を想定しているだろう。だがしかし、そもそも集一は、そこまでの弾き手ではない。

 そうしたことは、都美子も承知の筈なのだが。

 ──それほど、切迫しているのか。

 集一の返答を予測したのか、都美子は質問を変更した。

「では、どなたか、ピアノを演奏できる方に、お心あたりはございませんでしょうか? 謝礼は言い値でご用意いたします。一晩だけ、二時間ほど弾いてくだされば良いのです。どうか、お願いします」

 言い募る都美子の勢いに気圧されつつ、集一は受話器を持ちなおした。いざとなれば、三日ほど猛練習すれば、数曲ならばなんとかなるかもしれない。

「待ってください。それは、いつの夜の予定ですか?」

「明日ですわ」

 即座に答えた、彼女の声の響きには、全くの迷いも躊躇いもなかった。集一はそのことに驚いて、つい、聞き返してしまう。

「明日、ですか?」

「はい。無理でしょうか」

 あまりに急で、時間がなさすぎる。

 正直なところ、彼は困惑していた。都美子自身が思うように、無理と考えざるを得ない。

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