第5場 暗がりでの温もりは神のそれをも越す(5)

 乗用車が五台も停まれば一杯になってしまう駐車場は、たいてい混み合っている。開店はまだだが、隣のレストランへの食材の搬入に来たらしい小型トラックが、荷下ろしに都合が良いからだろう、横向きに停められていて、店の正面が塞がれていた。それを避けて進むと、そこにも、レストランにワインを運びに来た配達車が停まっている。二台の停めかたは、それぞれに仕事をやりやすくすることだけを考えているようで、都美子の車はあまり自由に動けない。

「あらあら」

 動揺の声を上げながらも、店主が都美子に指定した場所に、彼女はなんとか停車した。運転席側は敷地の端に設けられた鉄柵ぎりぎりで、反対側も、一番狭い部分では、ワインの配達車との空間は五〇センチもない。大柄な人間であれば一歩進もうとしただけで詰まってしまうだろう。都美子の車のサイズでも、少々無理をしている。

 亜杜沙が素早く車外に出る。彼女は帯でがっちりと腰を固めている所為せいで余計に降りるのに苦労している母親を手助けしようと、反対側に回っていった。その間に、すらりとした身体を難なくすり抜けさせ、僅かな隙間に立った集一が、大きく広がるスカートのひだを集めている結架に、手を差し出した。

「結架さん、お手をどうぞ」

「え……、あ……ありがとうございます」

 ほんの一瞬、集一は結架が逡巡するような気配を感じた。なめらかに、しかし緩やかな動きで彼女の手が集一の掌に乗せられる。その手首の細さに、どくりと心臓が音を立てた。

 先ほどから、なんとも幼げな精神反応が起こっては心搏が早まっていく。自分でも困惑してしまうほどの動悸を結架に気づかれないよう、集一は最大限の注意をはらった。まさか顔が紅潮してまでいないだろうな、と思いつつ、さりげなく結架の肘あたりまで掌を移動させ、彼女が体重をかけやすくなるようにする。

 隣に立った結架の腕が離れると、集一は二歩、三歩と後退した。結架も半歩ほど車の後部方向に移動して、後ろ手でドアを閉める。そのあと、彼女は内心で困った。ドアを閉めると、その凸面によって空間はさらに狭くなる。車の後部は鋼鉄製の柵に面しているので、ここから出るには車の前進方向へ進むしかないが、そうなると、結架は振り返って身体の向きを変えねばならない。つまり半回転すれば良いのだが、隣の車体が汚れている上に地面が軽く波打っていて、身を回すのを躊躇わせた。仕方なく、後ろ歩きすることに決める。

 ──と、三歩も動かないうちに、靴のかかとが何かに引っ掛かった。硬い石と、それが沈むような感覚。その石で踵が削れる音と、土の塊が砕ける音。

 結架は、何が起こりつつあるのかを把握できなかった。

 景色が視界の下に流れて、一等星が白く浮き出る、薄暮はくぼへと向かう空が広がるのが見える。

「え──?」

「あぶな……っ」

 仰天し、咄嗟とっさに集一は結架の腕をとらえた。

 大きく踏み出すと同時に右手をいっぱいまで伸ばして、彼女の背中がこれ以上は沈まないように支える。同時に、結架の体重を感じた手に反動をつけながら、充分に手加減して左腕を引く。自分の背中と右腕にかかった圧力の理由を結架が考えつく前に、集一のほうは必要な行動のすべてを終わらせていた。

 結架の息が止まる。

 頬を包む優しさに、喉を塞がれて。

 思いのほか、強靭な腕に、そして、胸に抱かれ、あまりのことに予想すらしていなかった感情が溢れて、結架の心を清廉な想いに沈めた。

 夏の宵の風が吹く。

 都美子と亜杜沙からすれば、ほんの数秒のあいだだったが、それは結架にとっては、時の感覚を麻痺させてしまうほどの出来事だった。

 長く永い、凍結した時間。

 暑いくらい暖かなはずなのに、冷たい。凍りつくほどの強烈な予感が彼女を襲う。

「大丈夫ですか?」

 腕の鎧が緩んで、胸部に痛みを感じるほどに優しく気遣う声が降ってきた。そっと離れた集一の顔をまともに見られず、結架は右手で自分の左手首を押さえる。

「へいき……」

「良かった」

「……!」

 不意に結架は重大なことを思い出して、真っ青になった。

 集一は──

「集一さんっ! あなた、手は⁉︎ 指は、なんとも──」

 ひどく動揺した結架は気恥ずかしさなど瞬時に忘れた。集一の両手を自分の掌に乗せる。しなやかな彼女の指先が、彼にはくすぐったいくらいに、そっと手の甲に触れている。

「ごめんなさい……私の所為で……。痛くありませんか?」

「いいえ、なんともないですよ。あれぐらいなら傷めることはないですから。心配なさらないでください」

 彼の言葉も、口調も、声質も、結架を優しく受け入れ、しかし、縛りつけはしない。彼女は泣きたくなった。泣いてしまったら……。

「お二人とも、怪我はないですか? あたしと同じパターンなんて、イヤですよ?」

 亜杜沙の声が響いて結架はすぐさま立ち戻る。頬が熱くなって、視界を揺らがせはじめた潤みを絶とうと、急いで背筋を伸ばした。顔を都美子と亜杜沙のほうへと向ける。

「はい、大丈夫ですわ。申し訳ないことをいたしました。私の不注意のために、もう少しで大変なことになるところで……」

 細く消える結架の声に、温和な都美子の声が重なる。

「ここは建物の影で暗いですから、仕方がございませんでしょう。お気をつけてくださいましね。

 これでは、駐車する前に降りていただけば良かったですわね。わたくしこそ、お詫びいたします。小型車にしたので大丈夫かと思ってしまいましたわ。

 それにしても、ここは、舗装すべきでしょうね。すこし前まで木が植えられていた土地を買い取って駐車場にしたばかりですから無理もございませんが、土質が不向きです」

 確かに足もとは どろどろしていて、タイヤのあとが深く刻まれている。地面が波打っているのは、その所為なのだ。都美子の降りた側は敷地の端だが、できるだけ幅寄せして停めたので、隣の車に挟まれた結架や集一と似たような状況だ。ただ、和服は足元に布の広がりが無いから、スカートを両手で押さえずにすみ、すくなくとも結架よりは歩きやすいはずだ。しかし歩幅はどうしても小さくなってしまうし、おまけに履いているのが草履では、結局は大した差もない。というわけで、都美子は娘の肩につかまって歩いていた。

 結架は体温の上昇を出来るかぎり無視して、今度は躓かないよう、注意深く足を踏み出した。しかし、なんだか足取りが覚束ない。集一は心の中で小さく笑うと、

「結架さん」

 呼びかけて、申し出た。

「差し支えなければ、手を貸させてくださいませんか。失礼ですが、先ほどのようになるよりは安全だと思いますよ」

 結架は自分でも困りきった表情になるのが判った。しかし、彼の言うことは尤もである。結架が転びそうになれば集一はまた助けてくれようとするのだろうし、そうなると、それが万一失敗した場合、土塗れになった若い男女の哀れな姿が出来上がる。

 彼女はため息を押し殺し、決断した。

「……お願いします……」

 消え入るような声だった。

 裾が大きく広がるスカートを左手で出来るだけ持ち上げると、結架は、おずおずと右手を伸ばした。どうぞというように差し出された集一の左腕に手をかける。二人はなんの会話もなく視線を下に落とした。そして、結架の歩調に合わせて集一も進みだす。ほんの数歩で出られる距離を長い崖の道のように感じたのは、結架だけではあるまい。

 先に脱出を果たしていた都美子と亜杜沙が前に立つ。ようやく開けた場所に出て、結架は礼を言って集一の腕から手を離そうとしたが、彼の右手に阻まれてしまった。驚き、彼を見上げる。すこし背けがちにした横顔に動揺が漂っていると感じたのは、彼女の気のせいだったろうか。

「まだ……夜は危ないから……」

 いつもの柔らかでまろやかな声とは違い、潤いを一滴も感じられない、渇き、かすれた声。彼自身、自分の行動に驚愕しているようだった。この薄暗がりの中でも、集一は、誰の目にもはっきりと判る、羞恥心と戸惑いを流露した顔つきをしていた。

 それにしても、一歩でも離れたら命に関わるとでもいうような、切迫した言いようだった。第一、建物の影とはいえ、夏の日が完全に沈んで消えるまでは、まだ長い。夜というには早すぎる。結架は、つい、微かな笑いを漏らした。その快い響きを聴きとった集一が更に驚く。

「結架さん?」

 集一の左腕にかけられた結架の手に、軽く力がこもった。

「……ごめんなさい。なんだか貴方にはそぐわないようでいて似合っていると思えて、つい……。どうか、悪く思わないでくださいな。でも、止まらな……」

 何が可笑おかしいのか、集一には皆目わからない。しかし、愉しそうに笑う結架を見るのは嬉しかった。悲哀など欠片もない、純粋な笑い声。屈託ない少女のように透明で、朗らかな響き。今日の憂いも、明日の不安もない。

「──ああ、本当に、ごめんなさい。ご気分を害されましたか?」

 笑いを収めた結架が無防備な瞳を向けてくる。集一には、これもまた、理由の解らない質問だ。

「まさか。いいえ、すこしも。望外の喜びでしたよ」

 ──ライブでのピアノ演奏の前に、楽しげな笑い声も聴けるなんて。

 声に出さずに、集一は呟いた。

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