第5場 暗がりでの温もりは神のそれをも越す(4)

 まるで、泣き方を忘れてしまったかのような、寂しげな笑顔。救いを求める場所を、一度として持ったことがないような、孤独の岸辺に立ちつくしている、疲れを隠しきれない二つの瞳。結架は、安心して泣くことすら、出来ずにいる。

 ──それどころか……。

 善良、誠愨せいかく、実直、清雅……。このごろ数々の麗句による賛辞を以って褒め称えられてきた集一から見れば、結架ほど哀婉あいえんな、憐憫を誘う人はいない。

 出逢ってから今日まで、ともに過ごした時間のなかで、結架が心から楽しそうな笑顔を見せたことが一度でもあっただろうか。声を抑えずに笑ったり、はしゃいだり、喜びのあまり誰かに抱きついたり。そんな姿は見たことがない。マルガリータやレーシェンが歓喜をあふれさせる様子と比較すると、結架は、まず驚いたような表情をする。それから緩やかに瞳に輝きが生じ、頬がふっくらと柔らかさを増して、微笑を浮かべていくのだ。だから、注意して見ていなければ、彼女が笑い声に似た空気の震えをつくっても、気づかず、聞きのがしてしまう。

 もしも結架が日常的に微笑んでいる人ではなかったら、近寄りがたく感じただろう。その美貌は霊峰のようにそびえ、とても話しかける気にはなれなかったかもしれない。まして、頼みごとなど出来たものではなかっただろうと思う。

 そんな考えに芯まで浸っていた集一は、亜杜沙の神妙とした声が聞こえず、自分の思考から外に注意を向けていなかったため、いきなり結架の声がしたのに吃驚した。

「亜杜沙さんが謝られることなんて、すこしもありませんわ。私のほうこそ……決して気持ちの良い話ではないですのに……ご気分を害されましたのでしたら、お詫びいたします」

「まあ、結架さん。なにを仰いますの。いけないのは、この無作法な娘ですわ。無遠慮に立ち入ったことをお尋ねして。わたくしの躾が行き届いておりませんで、本当に申し訳ないことでございます。どうぞ、お許しください」

 亜杜沙の頬が湯気を噴きだしそうなほどに紅潮するのが分かった。彼女の天真爛漫さが相手を不愉快にさせることは絶無と言ってよいほどだったが、さまざまな事情と理由から、都美子にとって、結架は細心の注意をはらって充分に配慮しなければならない存在だった。

 しかし、結架のほうは、それほどの気遣いを必要としていないらしく、優しい情感のこもった声で応える。

「とんでもない。私、嬉しく思っているのです。今までに亜杜沙さんほど私のことに関心を持ってくださった方は、いらっしゃいませんでしたもの。本当に、迚も嬉しいのです。ですが、ありがとうございます、都美子さん。これほどのお気遣いをくださって」

 そのときの結架の表情は、これまでになく透明で、明るかった。外から射しこむ街灯の、やわらかいオレンジ色の光が、その横顔を包む。日本人にしては色素の薄い、白い肌に、その光は夕陽のような懐かしい親しみを与えた。

 感覚的な印象ではあるが、結架には、彼女自身のことを聞き出そうとするのを遠慮させる雰囲気があり、これまでは、たまにマルガリータかカルミレッリが関心を示すだけだった。それも、趣味や好物は何か──といった、じつに他愛ない、微笑ましい程度のものだけで、彼女の過去や悩みなどを掘りさげるような質問が彼らや他の誰かの口から出たことなど、一度としてない。もともと他人のことを執拗に尋ねるような人間は演奏メンバーのなかにいない、ということでもあるが。

 つまり、仮令たとえ、亜杜沙と同等以上の関心を結架に対して持っていたとしても、亜杜沙と同格以上の度胸と人懐こさを有していなければ、誰も結架に個人的な深い質問は出来ない、というわけだった。

 ところが。

 結架には、最低限の範囲以外での他人の干渉を拒んでいるという自覚はない。それどころか、彼女は、処世術からくる愛想以上に、自分に対して熱心な好意と関心を持ってくれる人などいないと信じてしまっていた。マルガリータでさえ、もし、結架のすべてを知ったら……。

 だから、本当に彼女は嬉しかったのだ。自分の身上に、僅かでも興味を示してもらえて。

 そんな結架の心にまでは気づけなかったが、穏やかな、深い情愛を湛えた瞳で、都美子は真後ろに座る結架の姿を思い浮かべた。他人に悪感情を抱かない、人間であることを疑えてくるほど清らかで、優しい心と容貌の持ち主。共有した時間は短いが、都美子はそう、結架を評していた。都美子の喉から思わず安堵の吐息が漏れて、昇っていく。

「結架さんのような方で、本当に、安心しましたわ……」

 意味深長な抑揚と声色で呟いた彼女の真意を集一が質す寸前、車が速度を落とした。見覚えのある角を曲がり、車は駐車場へ入っていく。朗らかに、都美子が告げた。

「さあ、着きますわ」

 集一は、無意識に声を上げた。

「ここは……!」

「はい?」

「どうかなさいました?」

「あ……!」

 思わず、結架も小さく叫ぶ。

「ラ・コロラトゥーラ!」

 結架と集一の声が重なった。しかし、本人たちは全く無頓着でいる。驚いたのは都美子と亜杜沙だった。

「──あら? わたくし、店名を申し上げていませんでしたかしら……?」

「いやだ。お母さんったら、肝心なことは何もお話ししていないのね? それなのに、よく引き受けてくださったものだわ」

 亜杜沙の呆れ声に、都美子は反応しない。

「お二人とも、ここを御存知でいらしたのですね。おいでになったことがあるのですか」

「はい。前に、一度きりですが……」

 集一が答え、亜杜沙が声を割りこませる。

「お二人で、ですか?」

滅相とんでも……っ!」

「楽団の皆とですよ、勿論」

 温度でいえば熱気と冷気の回答だった。とはいえ、冷気のほうも、ただ涼しいだけではない。汗のなかには冷たく感じるときに分泌されるものもある。

「亜杜沙。失礼ですよ。まったく貴女は一六歳になったというのに、そのあたりの分別は少しも無いのね。大人を揶揄うなんて。集一さま、結架さん、どうぞ、お許しくださいませ」

「ええ、はい……でも、あの、私が……その、なんと申しましょうか、こういったことの機智に欠けるものですから……あの……とにかく、お気になさらないでください」

 嘆きだした母と慌てだした結架を見て、亜杜沙は弱りきった声を出した。

「結架さんこそ気にしすぎなんですよぅ。だって、あたしは何も、からかおうとか巫山戯ふざけてとか、そんなつもりは、まったく無かったんですからっ」

 結架は赤らんだであろう自分の頬が熱を発して、それを隣にいる集一に悟られないだろうかと思い、あたりを扇ぎたい衝動に駆られた。

「ええ、ごめんなさいね、亜杜沙さん。私はただ吃驚しただけです。ですから、大丈夫ですわ」

 沈黙を保ったままでいる集一が、結架には気にかかる。彼が何を思い、何を考えているのか、すこし怖い気もした。自分の態度が彼を不快にさせてしまった可能性を考えると、結架は身が縮むように感じる。しかし、そんな思いは、数分後の彼の行動によって跡形もなく溶けてしまうことになるが。

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