第5場 暗がりでの温もりは神のそれをも越す(1)

 都美子の車は意外にも小型のものだったが、藍色の塗装は見事な光沢で、どう見ても、乗り始めて半月も経っていないだろう、新車だった。納車されてすぐの、あの独特の匂いが車内にも満ちていて、集一には少々、きつい。彼は窓を開けてくれた都美子の配慮に感謝しながら、目を閉じた。

 運転席には都美子が、助手席には彼女の娘である亜杜沙あずさが座っている。そして、後部座席には、一人分の空間を挟んで腰掛けた結架と集一が、沈黙に身を包んでいる。

 あれほど自信満々でいたのに、いざ酒場へと向かう車内に居ると思うと、結架の気持ちは萎んでいった。他人に必要としてもらえたという喜びの背後に隠れていた、身を縮ませるほどの不安と恐れが現れて、絶え間なく切問してくる。

 ──本当に、大丈夫なの? こんなことをして平気なの? いっそのこと……。

 鞍木には、不在中も練習後に酒場やレストランに仲間と出かけることがあるだろうとは話してある。彼はすぐさま諒解して深く追求しなかったし、結架もそれ以上の説明はしていない。そもそも、いまは連絡する手段がないのだ。鞍木は移動中で忙しく、時間的にも連絡を取れる頃には深夜をまわっているだろうと出発前に言っていた。だから、誰にも今夜のことは言っていない……。知られる恐れは全く無い……。

『ツバキ』で早めの夕食を供されていたときは、朗らかな亜杜沙と気配りの細やかな都美子に心をほぐされ、視線が合うたびにあたたかな微笑みを交わす集一が傍に居ることに深い歓びと安らぎを感じていた。だが、「それでは、参りましょうか」と都美子が言った途端、急に心が揺らいだのだった。彼女が店の名前や場所についてはおろか、店主のことすら話さず、また結架も尋ねそびれていたから、そのせいだと言い聞かせはしていたが、車が走っていくにつれ、不安は嵩を増していった。

「結架さん? どうかしました? さっきから、なんだか気重でいらっしゃるように見えますけど」

 亜杜沙が腰をひねって肩ごと振り向き、心配そうに自分を注視しているのに気づいて、結架は慌ててかぶりを振った。

 たかが、今夜一晩だけのことだ。何かあるはずもない。

「いいえ。少し、緊張しているだけですわ」

「そうですか? もしかして、引き受けてくださったこと、後悔していらっしゃるんじゃないかと思って……。結架さんは、あたしと違ってプロだから、酒場で弾くなんてする必要ない筈ですもん」

 無邪気な亜杜沙の声に、結架は、不安の存在を八割がた忘れた。

「後悔など、しておりませんわ。ずっと憧れていたことが実現できるのですもの」

「憧れ?」

 亜杜沙は不思議そうな表情をする。

 ピアニストを志望している彼女にとっては結架のような職業的演奏家こそが憧憬の対象であって、自分のいま立っている位置など全く魅力を感じられない。大きなホールでリサイタルを開いたり、演奏を録音した記録媒体を販売したり、海外で演奏したり……。そんな、誰からも本職と認められるような演奏家が、亜杜沙にとっての憧れであり、目標だった。だから、その対象である結架が、自分のような知名度も評価も低いピアノ奏者の数少ない演奏機会──つまり仕事──に憧れるなど、どうして思えるだろうか。

 どう考えても、世間から一流だと認められた結架のほうが、その技術も、感性も、仕事の質も、全てにおいて、誰からも羨ましがられるように思える。

 そう亜杜沙が言うと、結架は果敢無はかなげに微笑した。

「いくら他人に認めてもらえても、自分自身が信じられなければ、本当の意味での一流演奏家ではありえませんわ。私なんて、いつも自信がありませんもの。だから、演奏にも、つよさが無くて……」

 結架の言葉が途切れると、明瞭はっきりとした調子の声が、横合いから飛び出した。

「そんな筈はありません。貴女の音に過不足なんて少しもないし、誰にも不満なんてあるものですか。貴女の音楽には、数世紀の時の隔たりに負けない剄健けいけんさが有ります。貴女が僕と一緒に演奏してくださることが、本当に嬉しいくらいだ。この一週間、僕は毎日、貴女の音楽を聴いているのですよ。どうか、自信を持ってください」

「……。」

 驚いている結架の頬に赤みがさし、次いではにかむ少女のような笑みが広がっていった。

「そう仰っていただけると、とても気が安らぎます……」

 集一は、内心、少し戸惑った。その瞬間の結架の笑顔が、ひどく無防備に見えたせいだ。

 初めて逢った日から、彼女を見てきて思ったのは、彼女が常に怯えている、ということだった。

 結架は何かに心を縛られている。

 そんな憶測を、集一は頭から消すことが出来なかった。彼女の意志や、信仰、思想までもが、誰かに侵害されている気がしてならない。何故なら、彼女は四六時中、周囲に気を遣っている。いつだって彼女は他者に従順で、自分の要求を決して出すことがない。そして、最初の頃は七里結界めいた雰囲気すらあって、集一を、他の誰より避けているようにも見えた。

 だから、いま、この場に結架がいることは、非常に驚くべきことだった。そもそも今夜のことを頼むための電話に結架が出たときにも、彼は驚いていたのだ。あのとき彼は、鞍木が電話口の向こうに現れると思っていた。

 実のところ、彼は、天が味方すれば結架と話ができるかもしれないとだけ望んでいた。都美子には申し訳ないながら、返事が否でも応でも会話ができるなら──と。だが、予想は外れ、取次ぎのフロント係は鞍木ではなく結架に繋ぐと告げた。あの時点で鞍木は不在にしており、結架に仲間からの連絡があった場合、取り次いでも構わないとしていたようだった。そして、それだけでなく、彼女は、こうして集一の力になろうとしてくれている。

 勿論、彼女のピアノを聴きたいと思ったのも、事実だ。都美子のためではなく。

 だが、彼女は主義主張は確固としていたが、それを自分から見せることは殆ど無い。

 決して人づきあいが下手なわけではないのに、自分から、他人の近くに行こうとはしない。

 そんな結架の様子は、何かに恐怖しているように、集一には見えた。

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