第5場 暗がりでの温もりは神のそれをも越す(2)

 ──何が、彼女の脅威となっているのだろう。

 いま、こうして隣に座っているだけで、彼女が心の奥底で怯えているのが判る。表情にも声にも出してはいないが、なんとなく、雰囲気で伝わってくるのだ。こんな怯えかたを彼はっている。見たことがある。そして、いま、それほど二人は接近しているわけで……。

 不意に顔面や耳たぶが火照るのを感じて、集一は密かに焦った。こんな、この年齢になってと思うが、激しい羞恥心とともに静かな興奮が沸き上がり、鼓動が早まる。彼は、どくどくと波打つ全身の脈拍音を抑えるのに必死になって、結架に漂う恐怖の片鱗のことを気にする余裕をくしてしまった。

 そして、結架自身は、ずっと頭の四方から鳴り響く警告に気を取られていたので、集一の様子に変化が起きたということには、まるで気がつかなかった。

「それにしても、こんなに急な話を、よく引き受けてくださいましたわ」

 都美子の熱っぽい感謝の声に、集一は我に返った。隣の結架に視線を向けると、綺麗な横顔が傾くのが見えた。

「本当に、どうしたものかと思いましたもの。どうしてもピアノの生演奏が必要な日なのに、専属契約していたピアニストが急に来られなくなってしまったから、ピアニストの知り合いが居るなら是非とも紹介してほしいと頼まれて、娘を紹介しましたのに、よりによって前日に怪我をさせてしまうなんて。なんてことかしら」

 都美子のため息に、亜杜沙の声が重なる。

「それは、あたしの言いたいことだわ。本当、残念だな。人前でピアノを披露できる折角の機会を逃す羽目になって。でも、結架さんみたいな人の本物の演奏が間近で聴けるんだから、寧ろ、幸運なのかも」

「本物だなんて。もう、何年も弾いていませんから、亜杜沙さんのほうが、お上手なのではないかと思いますのに」

 結架が萎縮したのを、椿母子つばきおやこは不思議に思う。

「でも、ピアニストでいらっしゃるのでは?」

「いいえ。昔はそうでしたけれど、今の私が弾くのは、チェンバロなのです」

 交差点で車が停止する。都美子は右手をハンドルから離し、自分の顎に添えた。

「どう違うんですの?」

「明らかな違いは、その仕組みですわ。ピアノは弦をハンマーが叩いて音を出しますけれど、チェンバロは弦を爪がはじいて音を出しますの。ですから、ピアノのように微かな音や大きく響く音は望めませんが、限られた範囲の空間には最高の響きを持たせますし、オルガンのように鍵盤の弾き替えなどの操作によっては、複数の対比的な音量と音色を得られます」

「なるほど、オルガンかぁ……。ふうん」

 亜杜沙が幾度も頷く。どうやら、彼女には理解できたようだ。しかし、都美子は娘と対照的な表情をしている。眉間には皺まで浮かんでおり、隣で見た亜杜沙が苦笑して、背後の二人に視線を飛ばす。

 やがて、都美子が問いを発した。

「オルガンといいますと、小学校などでよく見かける、あのオルガンでございますか」

「え? 小学校にオルガンが有るのですか?」

 目を丸くした結架を見て、急いで集一は二人の間の齟齬を正す。

「違いますよ、都美子さん。結架さんの仰るオルガンとは、学校ではなく教会にある楽器のことです。総じて『パイプ・オルガン』と呼ばれます。現在でも置かれているのかどうか知りませんが、小学校にあるようなオルガンは、大きさからしても全く別のものですよ。発音の基本的な原理は、ほぼ同じですが」

「ああ、教会の壁一面にある、あれですのね。確かに大きさは、まるで違いますわね。でも、それほど違っているのですか?」

 問いながら、都美子はアクセルを踏む。再び車は前進しだした。しかし、今日はまた、随分と混んでいる。あまり速度を出せない。

「簡単に言うと、パイプ・オルガンを教会ごと小さくして、一部を取っ払って、最低限だけ残して箱に入れ直した感じね。ね、集一さん」

「ああ……そんなもの……かな」

 結架が声を上げた。

「そういえば、子どものころに父の部屋で見たことがあります。持ち運び可能なオルガンだと教えられましたわ。鍵盤とパイプの後ろ側にふいごがあって、それらが一体化していますの」

「──うん、まあ、多分それを進化させたものじゃないかしら?」

 確信が持てないながらも、亜杜沙と集一は、結架の言葉を否定しないよう気を配った。

 彼女の説明に似たようなものを、学生時代に音楽史か何かの講義で聞いたような気がしたが、それほど昔のことでもないのに、集一の記憶は、うっすらとぼやけてしまっている。オーボエにのみ熱中していた頃に学んだことは、大体において、そんなありさまだ。

 持ち運びが可能とは、どういうことだろう。机に載る大きさだとか、両手で抱えられるだとかだろうか。それとも、分解したり、折り畳んだりして小さくできるのか。

 集一が不真面目に受けたらしい講義への態度を後悔しながら想像を巡らせていると、前方から、前触れなく質問が飛んできた。

「結架さん。あの、どうしてピアノをやめてチェンバロに転向したんですか?」

 亜杜沙の隣で、都美子は思わずハンドルを切り過ぎてしまうところだった。

「まあ、亜杜沙! おやめなさい。不躾にも程がありますよ」

 狼狽うろたえているのは都美子だけではなかったが、結架は気づかなかった。

 澄んだ優しい声音が、都美子の狼狽ろうばいを宥めていく。

「構いませんわ、都美子さん。亜杜沙さんが不思議に思われるのも、ごく自然なことですもの。ただ──すこし説明に困るところもあるものですから──うまく言えないのですけれど」

 一瞬、集一は、どういう〝困る〟だろうか、と思った。

「私……母がピアニストだったからでしょうか……ピアノを弾き始めたことを特に不思議だとは思いませんでした。家族も皆、音楽家で、学校へ行く年齢になるまでピアノは誰でも弾くものだと思っていたくらいです。

 それに、私は、ピアノに触れるのが迚も好きでした。一生、弾き続けることを疑わなかったくらい、本当に、ピアノが好きでしたわ。どれほど厳しいレツィオーネを受けても、苦痛に思ったことなど、ありませんでした。毎日、何時間でも飽きることなく、弾き続けました。難しい運指を間違えずに、滑らかで自由な音楽に完成させていくのが楽しくて、嬉しかったのですもの。それなのに……」

 結架は一旦、口を閉ざした。当時を思い出そうとしているのか、思い出したくないからか、暫く彼女は俯いたまま、微動だにしなかった。

「……弾かなくなってしまった?」

 待ちきれずに挟んだ亜杜沙の言葉に結架は顔を上げ、そして、頷く。

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