第4場 邪(よこしま)な契約

 女の唇には湿った笑みが浮かんでいて、それが自分に対する皮肉に思えた男には、たいそう不愉快だった。あからさまに相手を軽んじている女の笑みは、浅はかな自信と優越感からくるのに違いない。

 ──なんと卑しい。

 男は、心底から嫌悪する。

 そんな男の気も知らず、女は少し、上目遣いで彼を見る。機嫌をとろうとするように、陰湿で下卑げびた光が、ふたつの眼球に浮かんでいる。それは、女のものか、或いは男のそれが映ったものか。

 擦過音を多く含んだ、男には耳障りな声が響く。

「それで──いつから始めれば良いのかしら?」

 男は女に、ある指示を出したばかりだった。それは確実に報酬を約束して交わした、互いの同意に基づく契約だ。だから、今の男は、女にとって雇用主である。

「今すぐに」

「せっかちね。でも、それって、ちょっと味気なさすぎるわ。経費も報酬の一部も気前よくくれて、有り難いけれど、それだけじゃ、やる気満々にはならないのよね」

 するりと伸びてくる女の手を振りはらいたくなったが、男は堪えた。

「どうして、私を選んだの?」

 もっと、うってつけの人間は、他にも居る筈なのに……と続けた女のよく動く指から逃れて、男は窓を開け、風を招き入れる。冷房の効いた室内に生温かい夏の風が入ってきたが、男には心地好かった。

「語学堪能だから? 事情をよく知っているから? それとも──こういうことも頼めるから?」

 女の手は、どこまでも追い縋ってくる。

「でも、それで、いつも、お金銭かね以外の報酬を要求されることになるのよ」

「……せ」

 女は止めずにわらった。熱い吐息が耳朶を叩く。男は顔をしかめたが、そういう表情に慣れている女には、なんの効果もない。

「あなたが焦っているのは解ってる。こうして、ずっと独りで悶々としているのよね、可愛いわ」

 ふふふ、と笑声を転がせて、女は愉しげに男の肌を求める。

「良いわよ。明日には出発してあげるわ。でも、移動の時間って、退屈なのよね。快い餞別を戴くわ」

 男は、凶暴な目の色で、女の瞼を見つめた。

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