第3場 不可解と謎の関係は恋の戯れ(2)

 張りつめたマルガリータの心奥しんおうにあるのが憎しみなのか、それとも愛情なのか、集一には測りかねた。しかし、彼女に対峙する者の瞳にある優しさには気がついていた。

「ユイカが困っているだろう。シューイチもだ。この二人には、そういう冗談は逆効果だと思うが」

 マルガリータの白い真珠のような歯から、小さな悲鳴が上がった。紅唇が歪み、潤んだ瞳に熱がこもる。

「……そんなの今更あなたに言われなくっても解ってるわよ……!」

 冷え冷えとして、日頃の明朗さを打ち捨てた、いっそ酷薄さを感じさせるほどにはげしいマルガリータの声と語調に、結架は驚き、たじろいだ。いつもの彼女は決して本気では怒りを表さない。不愉快さを示すのに〝怒り〟を利用することこそあったが、それに我を失うようなことは一度もなかったのだ。

 結架も集一も、マルガリータがこれほどの敵意を見せるなど、想像すらしなかった。他者に対してここまで嫌悪の感情を持つような人物とも思えなかったというのに……それなのに、いま、フェゼリーゴを見る彼女の目つきには、一種の憎しみとも思えるようなものさえある。

 結架は身震いした。

 心に闇が巣食わない人など、居ないのか。

 影があるかぎり、陰はなくならないのか。

 どうしても、どんな人間であっても、悪意や恨み──自分自身だけに面している嫌悪や悩みとは違う他人に対しての影──は、持っているのか……。

 マルガリータの、烈々とした攻撃的な視線を受けても、フェゼリーゴは少しも動じていなかった。自然な脚の幅で、悠然と、無理のない姿勢で佇む彼の身体の表面には様々な感情がゼリー状になって広がっていて、どんな痛みも吸収してしまわせているようだった。穏やかに彼は口を開いた。

「だとしたら、尚のこと、君は不見識な行いをしているのではないかね」

 一瞬で、マルガリータの娥眉の間に亀裂が生じる。それを隠すように、彼女は顔を背けた。怒りという山のいただきから悲しみという崖の底へ墜落していくかのような姿を見て、結架の表情が変わった。

 冷然と容赦なく、切れ味するどい理性の言葉が用いられるとしたら、それは深い愛のもたらすものであるべきだった。結架の信条では。

「私は大丈夫よ、フェゼリーゴ。気遣ってくれたのは嬉しいけれど、マルガリータだって、私のことを考えてくれているのだもの」

 太く濃い眉が片方、そびやかされた。

「しかし、言うべきことは、言っておかなければ」

「ええ、そうね。でも、だからといって、誰もが何でも言葉にしていいわけではないわ。貴方は、いつもそれを、他の誰よりも実践していらしたもの」

 これまでの結架からは想像もできないような強さで、彼女はフェゼリーゴを牽制するように見上げた。その、揺るがぬ立ち姿に威嚇めいた雰囲気を感じ取って、集一は目を瞠る。

 マルガリータの睫毛が細かく震えていた。まるで、二人の女性の精神が入れ替わったみたいな光景だ。

「……確かに言いすぎたようだ……。マルガリータ、すまない」

「……」

 顔をあげたマルガリータの瞳には、それでもまだ、フェゼリーゴへの怒りと非難がある。いったい、フェゼリーゴのなにが彼女をここまで強情にさせるのか。知り合って日の浅い結架にも、集一にも、全く思い当たらなかった。

「マルガリータ」

 さりげない口調で集一が促すと、意固地に無言で直立不動を保っていたマルガリータは、低い声で、

「……いいえ、こちらこそ」

 言うなり、身を翻して部屋から出て行ってしまった。

 フェゼリーゴが腰に両手をあて、身体全体で息を吐く。

「申し訳ないことをしたね、ふたりとも。どうか、悪く思わないでくれ。なんとか鎮められないかと思ったのだが、どうやら、私は適任ではなかったようだ。その点では、彼女よりも、私のほうが不見識だな」

「それは構わないが……」

 集一は言葉に迷った。どう、尋ねるべきなのか。

「君たちは、昔から知っている仲なのかい?」

 躊躇いとは違う、沈黙。

「……ああ。一〇年前、私と同じ楽団に彼女が入団してきたときから、よく、知っている」

 噛みしめるような言い方だった。

 フェゼリーゴは、それ以上は二人に何も語らず、ふっと顔を逸らして、

「じゃあ」

 と言うと、まだ楽器を片付けているレーシェンとアンソニー、カルミレッリのほうへ歩いて行った。彼らは賢明にも、この騒ぎをこれ以上の混乱に発展させないよう、不必要な関心を示さずにいる。

 マルガリータが、レーシェンとアンソニーの在籍している楽団の一員である、と言う話は、結架も集一も、ミレイチェや本人たちから聞いて知っていた。だが、フェゼリーゴも三人と一緒に選ばれてきたとは、少しも気づかなかった。また、気づくような要素も、これまでなかったように思われる。

 そもそも、初対面の紹介のときにも、それぞれの来歴表にも、そのような内容はなかった。いま思い返すと甚だ不自然ではあるが。

 ミレイチェの友人が営んでいる酒場に皆で行ったときも、『ツバキ』で食事をしたときも、それ以降のどの場面でもフェゼリーゴはマルガリータの加わっているグループには参加しなかった。一〇年も同じ楽団に身を置いて音楽を分かち合ってきた関係だというのなら、何の気兼ねもなく同席できる筈なのに、彼はそうせず、また誰も彼を誘わなかった。その上、彼が練習中以外でマルガリータに話しかけたのは、これが初めてである。

 誰もが、この点について避けていたとしか思えない。

 しかし、集一には朧げに推測がついたので、そのことを追求しようとは考えなかった。第三者が無闇に踏み入る領域ではない。そう、思えた。それで、意識を隣に立っている結架に戻す。

「なんだか、誤解されたままですね」

 そう話しかけられて、結架は思考から抜け出た。彼が何を言わんとしているのかは解っていたが、このときの結架にとっては些細なことに思えた。マルガリータの誤解を解くのなら、いつでも大丈夫だと考え、微笑みを浮かべる。

「ええ。でも、私は構いませんわ」

 集一が息を呑む。しかし、結架は涼しい顔をして言った。

「急がないと、遅れてしまいますもの。参りましょうか」

「ああ……、そうですね」

「慥か、椿さんの御宅に伺えば宜しいのでしたわね」

 その確認に彼が頷くと、結架は自信に満ちた足取りで歩き出した。

 ──どうやら今の発言は、マルガリータの言葉を肯定したからではなさそうだな──と、思いつつ、集一は小さな吐息を放ち、結架を追った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る