第3場 不可解と謎の関係は恋の戯れ(1)

 午後の練習が終わると、大抵たいてい、皆は暫しの歓談を楽しむ。その会話の中で、その日の夕食を誰と摂るのか考えつつ、交渉するのだが、この日は、結架は初めての行動に出た。集一に近づいていったのだ。

 しかも、この日の朝も、結架は真っ先に集一のもとに行って、会話をしている。

「実は、一昨日の昼の時点では、まだ、都美子さんの娘さんが代理を引き受けていました。でも、都美子さんと廊下で正面衝突したときに突き指してしまったそうで。酷く腫れてしまったのだと言っていました」

 結架との電話の後、集一は都美子に電話して、結架が酒場での演奏を快諾してくれたと伝えた。すると、普段の都美子からは想像できないほどの興奮が送受機から押し寄せてきて、驚いた集一が詳細を聞き出す前に、彼女は、早く友人を安心させたいと言うなり通話を切ってしまった。

 正直にそのことを話して詫びた集一に、結架は首と両手を同時に横に振って、「酒場のご主人自身は、代理の演奏者を探し出せなかったのですか?」と、訊いて彼の意識を逸らそうとしたのだった。

 結架の問いに対する集一の答えは、ごく簡単なものだった。初めに頼まれたのが店主の友人である都美子の娘であれば、彼は少なくとも、一人は代理奏者を見つけている。しかし、彼女が不慮の怪我で演奏できなくなったことに責任を感じた都美子が、彼よりも熱心に、娘に代わってピアノを演奏してくれる者を探そうとしたのだろう。

「まあ……。それは、都美子さんも、娘さんも、お気の毒でしたわね……」

「突き指ですから、それほど心配ではないのですが……なにしろ演奏を頼まれた日は今夜で、他に演奏家を探すのが困難だったのでしょう。それで、むなく、僕に誰かを紹介してもらえないか、と」

「そうでしたの」

 朝はそこまでしか話せず、昼も皆が結架と話をしたがったので、落ちついて打ち合わせることも出来なかった。皆からの夕食の誘いを断っただけで、まだ、細かい話をしていない。

「ところで──鞍木さんは、今日は何方どちらにいらしているのですか」

「鞍木さん? 彼でしたら、昨日からヴェネツィアに行っていますわ。というより、ムラーノ島に」

「ムラーノ島に?」

 あまりにも意外な言葉に集一は驚いた。結架に仕事としてピアノを弾いてもらう以上、マネージャーである鞍木を通さないわけにはいかない。ミレイチェが捕まらず、鞍木の連絡先が分からずに、仕方なく結架に直接、依頼をしたが、本来ならば、まずは鞍木に話をすべきだったところなのだ。

「いつ、お帰りになりますか」

 しかし、結架は首を傾げた。

「さあ……。予定では、明日でしょうか。お願いしたものを受け取りに行ってもらっているだけですから、それほどかからないとは思うのですが、品が出来上がっていれば、ですので」

 集一の声が翳る。

「そうですか。では……連絡を取るのは難しいでしょうか」

 集一としては、ごく当然のことのつもりだったが、結架は正式な仕事として応じるつもりがないらしく、鞍木にも報告すらしないでおくようだった。出来るかぎり、それは避けるべきものだったが……。

「ご心配には及びませんわ。鞍木さんには、私から必要なことをお伝えするつもりです。彼は、自由にさせてくれます。私が望むように」

 噛み締めるように、ゆっくりと、彼女は断言した。

 しかし、それは集一の信条に反する。筋は通さなければならない。ただ、それには時間がない。

 集一の表情にもかげりが見てとれる。結架は到頭とうとう

「なにか問題がありまして?」

と、訊いてしまった。集一の瞳に戸惑いが浮かぶ。

「いいえ、ただ……問題があるとすれば……それは、貴女にあるのではないかと」

「私に?」

「貴女は、不安ではないのですか?」

 ごく僅かだが、結架の微笑みが震えたのを、彼は見逃さなかった。

 一瞬の空白。

「私が不安を抱いているとしても、それは貴方とは無関係です」

 その意味を尋ねようとした集一の言葉は、結架のあでやかな笑顔に消されてしまった。

「それに、私、何故だか迚も自信があるのです。絶対に、うまくいきますわ」

 白い手が結架の両肩に現れ、その後ろから天真爛漫な声が響く。雨粒一滴分も悪意はないが、悪戯心は地中海に満ちる海水量に匹敵する女性、マルガリータの声が。

「二人で何の相談? 逢引ランデヴーの約束でもしたのかしら」

「な……っ」

 異口同音の短い叫びに続いて、それぞれの激しい反応。

「そんなんじゃないわ!」

「そうだよ。おかしなことを言わないでくれ」

 しかし、マルガリータは二人が思っているよりも、ずっと豪放磊落だった。

「まあ。ちっとも、おかしなことなんかじゃないでしょ、シューイチ。でも、心配しなくていいわよ、二人とも。そんなにむきになって否定しなくても、言い触らすなんてことしないから」

「違うったら」

 結架の頬が光を点したようになった。それを見た集一は額にあてた右手を下ろす。

 白磁にも似た、すべすべとした彼女の肌の下には、フィラメントがあるらしい。透けるような頬の皮膚を通して、内面の輝きが外に放たれる。そのエネルギーを作り出しているのは、一体、彼女のどの部分なのか。

「隠すことないわよ、ユイカ。わたしは恋愛に関しては貴女の師になれるほどだから。何でも、相談して頂戴」

 マルガリータのふくよかな声が起こした結架の震えが、集一を空想から引き戻した。

「そんな、マルガリータ……!」

「なあに? そうね、おすすめは、郊外のスペルガ聖堂の近辺かしら」

 結架の声に含まれている顕著なほど非難がましい制止を、マルガリータは歯牙にもかけない。集一は、それが彼女流の愛情表現だと気づいていたので、ひとまず黙っていたが、ただ静観していたのではなかった。動揺して困惑している結架のためにも、自分自身の居心地の悪さを解消するためにも、彼女のおちゃらかしを如何どうにかしなくてはならない。

「そうじゃなくて……っ」

「あら、それじゃ、旧王宮のほうがいい?」

 ため息混じりの諌言を呈そうとした集一の口が開きかけて止まり、ひとつの音も発さずに閉じられた。マルガリータの背後に、長身の人影を認めたからだ。

「ふたりを揶揄うのも、それくらいにしてはどうだ」

 深く、広く、珊瑚を包む大海の如く穏やかで包容力に富んだ声が、静かに空間をくるんでマルガリータを諫めた。不意を突かれ、彼女の頬が強張る。唇からは無邪気な笑みが消えて、陰湿とも思える非友好的な光が薄い色の双瞳に宿った。

 マルガリータの劇的な変化を見て、結架は目を疑った。それは、結架が初めて見る、マルガリータの姿だった。抑えきれない怒気が漲って、どうにもならない激情を抱えている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る