第1場 神とは愛、そして神を識る者たち(2)

「え──?」

「勿論、僕も人から頼まれて、こうして貴女にお願いをしているわけですが……」

 気の進まない話だ、と言いたげに、集一は一呼吸おいてから説明を始めた。いささか投げやりな口調ではあったものの、それは結架に対しての思いやりからのことであっただろう。彼女が不必要な同情を抱かぬように、との。

「都美子さんの知人に、酒場の経営責任者がいるのですが、明日の夜、急に、専属契約しているピアニストが来れなくなってしまったと言うんです」

 マルガリータの鶴の一声で初めて行って以来、お決まりの顔ぶれで、何度か日本料理店『ツバキ』へ通っている。経営者で、女将でもある都美子に六人は名前を覚えてもらっていたし、時間があるときに彼女の案内で店の庭を散策させてもらったこともある。

 同じ日本人だから、だろうか。都美子は、結架には特に親しみをこめて接していたように見えた。それでも未だに彼女と集一との関係は少しも窺えず、ただ想像するしかない。だが、結架にとっては、もう、どうでもいいこととなっていた。

 国境も文化をも越えて、〝母〟を想起させる彼女の持つ寛容さは、並外れていた。なにしろ、あの模型の水車小屋の内部を見たいと言われても、動じることなく軽く笑って手ずから屋根を開け、仕組みを見せてくれたほどである。待ち望んでいた瞬間に、マルガリータやカルミレッリは大喜びしていたものだ……。

 その都美子が、知人の難を見かねて、集一に解決策を得る援助を求めた。

「それで──私に──?」

「はい。でも、無理なのは判っていますから……。勝手なようですが、貴女ご自身から断りの御返事を戴きたかったのです。でないと、都美子さんには納得してもらえそうにない気がしまして。ですが、じかに彼女から頼まれたら、断りにくいですよね。でも、なんといっても、酒場は酒場ですから。貴女のような方の演奏する場じゃない」

「お受けします」

「──なんですって?」

 聞き間違えたかと、集一は問い返した。すると、耳に優しい笑い声が、微かに、しかし確かに受話器の穴から漏れ聞こえた。悲しみに似た喜びを含んだ、切ない音の波が。

「お受けしますわ」

 暫し、集一は絶句した。

 彼は最初から、諦めていたのだ。相手は音楽院の生徒などではなく、歴然れっきとした職業的な演奏家だ。それも、よほどの仕事でなければ受けてこなかったと有名な、、折橋 結架である。酒場で、しかも、こんな突然の話で、弾いてくれるなどと、どうして思えるだろうか。

「待ってください、あの……」

 言葉に窮して、集一は額に手をあてて混乱を鎮めようとした。

 結架が──どんなに良い契約と思えても、まず即決はしないらしい折橋 結架が──迷う間も考える間も省略してしまっているとしか思えない返事をしたのだ。それも、承諾の返事を。

 すくなくとも逡巡する彼女を予想していたのだが。

「酒場ですよ? 良いのですか? ステージも幕も、舞台裏だって無いのですよ。それでも……その……受けてくださると仰有おっしゃるのですか」

 動揺で声が乱れている集一の様子を察し、結架は口元を綻ばせる。落ちつきはらった声で、彼の質問、というより確認に答えた。

「私、以前から、そうした場所で演奏してみたいものだと思っていましたの。そういう、開放的な場所で。ですから……そう……渡りに船、ですわ」

 使い慣れない諺を用いて集一の心の負担を少なくしようとしてみたが、彼は大真面目で言い返した。

「でも、呉越同舟になりかねませんよ」

 その意味を深く考えることなく、結架は言葉の遊戯に嵌った。

「乗りかかった船、と考えますわ」

「ですが、貴女が弾き手だと知れたら、どんなことになるか……」

 結架は想像しようとして、やめた。

「大丈夫です。私、貴方が思っていらっしゃるほど、有名ではありませんのよ」

「……」

「心配なさらないでくださいな。お引き受けした以上は、私個人の問題ですから。それに、申し上げましたでしょう? とても出演料を戴ける演奏ではないのですもの。いえ、決していい加減に弾いたりなどいたしませんけれど、でも、精一杯の演奏をしますわ。お役に立てさせてください」

 ここまで言われたら、反論など封じられてしまったも同然だ。集一は、安堵して良いのやら、それとも危惧するべきなのか、どちらとも判じられず、手放しで喜ぶ気分になれないまま、言うべき言葉だけを口にした。それに嬉しそうに応えた結架の、理解しがたい精神に向けて囁く。

「貴女は不思議なひとですね、結架さん」

「え……?」

「いえ。では、詳しいことは、明日、ご説明します」

「ええ……。あ、でも……どのような曲が良いのかしら。酒場ですと、ジャズかシャンソンですか? それとも、イタリアなのですから、カンツォーネが宜しいのでしょうか」

「そうですね。でも、エリック・サティとか、ジョージ・ガーシュウィンなどが無難かと思いますが……」

「あら! サティでしたら、得意でしたわ。三つの『ジムノペディ』とか、六つの『グノシエンヌ』、『古い金貨と古い鎧』なんて、如何いかがかしら?」

「いいですね。それと、あの曲……」

 集一の声色に、やっと明るさが現れた。結架はたちまち心が踊る。

「何ですの?」

「あの、是非、弾いていただきたい曲があるのです。以前、よく耳にした曲なのですが。ええと、何といったかな……」

 なんとか思い出そうと記憶を探っているのか、暫くの間、集一は押し黙った。やがて、結架の耳を、深いため息とともに残念そうな声が撫でた。

「駄目です。完全に忘れてしまっていて」

「……では、思い出されたら、教えてくださいね。きっと、お聞かせしますから」

 結架の瞳は夢を見ている。

「それは、嬉しいですね。早く思い出さないと」

「ええ。急いでくださいな。でないと、お聞かせできませんもの……」

 会話が途切れた。集一は、何を言葉にしていいものか、迷いつつも選んでいく。

「では、明日、練習が終わったら、一緒に『ツバキ』へ行きましょう」

「ええ──、明日」

 結架も少し、歯切れの悪い言いかたをした。それから、二人して、受話器を下ろすのに躊躇する。

 つい少し前に口にしたことを、集一は訂正したい気持ちになった。結架自身に断ってほしいだなんて、とんでもない嘘だ。都美子が納得できないだろうというのも、彼女に対しては失礼も甚だしい、偽善的な出任せだ。

 都美子のためなどではない。集一は、誰よりも自分のために、結架にピアノを弾いて欲しかった。出来るなら楽団の皆には知られずに、結架との時間を過ごしたかったのだ。そして、なにより、彼女に自分の心を救ってもらいたかった。あの、後悔を贖うために。未来を掴むために。都美子の電話を受けたとき、頭に浮かんだものは、他の何でもない、ただ、それだけだった……。

 集一の心の内に気づけるほどの洞察力を、結架はそなえていない。だから、彼の痛みを知らぬまま、沈黙の果てに、受話器を置こうとして……。

「結架さん」

 慌てて、また受話器を耳にあてた。

「はい」

「本当に──ありがとう」

「……っ、いいえ……」

「──おやすみ」

「おやすみなさい……」

 震える手で受話器をおろすと、結架は大きく息をいて、電話台の隅に重ねた両手の上に額を乗せた。じわりと熱が伝わって、軽く汗ばんでいるのがわかる。

 頭が心臓になってしまったように、こめかみのあたりで血管が脈打つのを感じた。とくん、とくん……と、鼓動を繰り返すたびに、記憶の深淵から液化したうたが溢れ、血に溶解とけて、全身に行き渡っていく。未だ細かく震える指先に、熱い血潮が迸ったかと思うほどの、鋭い痛みと痺れを感じた。



 誰もが胸に、花の蕾を抱いている。

 自分だけでは、決して開かぬ、膨らまぬ。

 かたく閉じたまま、かたくなに。


 誰かの指で、そっと撫でてもらえたら。

 漸く震えて、眠りから覚め、歌いだす。

 清く広げたまま、たおやかに。


 誰にも解らぬ、花弁の色は、

 はじめは必ず、見るも鮮やか、同じ純白しろ

 開いたのちに、そのひとだけの色となる。



 数年前、自宅の書架で見つけた帳面の一頁にあった、手書きの詩。集一の一言ひとことを聞いて、一瞬、弾けたように、それが浮かんでは消えた。

 結架は両手で胸を押さえる。切ない痛みが確かにする。きゅっと締めつけられ、かつ、引かれるような。

 花が咲くときに、痛みなどあるのだろうか。植物は、花を咲かせるときに、痛みを感じているのだろうか。

 ──どうして?

 結架には、自分の心が解らなくなっていた。気をつけているはずなのに。警戒しているはずなのに、それでも何故だか抑えられていない。いつのまにか防御することすら忘れてしまっている。しかし、無防備な状態になっているときの結架は、それを自覚していなかった。

 夜は更け、朝は確実に訪れる。心の闇も、いずれは夜明けと光を取り戻す。けれど……そこに星があることは……誰もが知っている。太陽の光で圧されてしまっても、雲で覆われていても、そこには必ず存在する。見えない星が。

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