第二幕

第1場 神とは愛、そして神を識る者たち(1)

 北半球──欧州の夏の昼は長い。九時を回ったというのに、まだ外には夕暮れの残滓が霧の如く漂っていた。

 朝は十時前に集まって練習を始め、教会で夕べの祈りを捧げたいという信心深い六人の為にも午後の練習は早めに切り上げて、それぞれの行動に移る。また、別のコンサートに出演したり、レコーディングしたりと、団員が何人か抜けることもある。そんな日々が続いた。

 初めて全員が揃った日から、一週間。練習後に全員で飲みに出ることはなかったが、マルガリータと結架は昼食だけでなく夕食も度々一緒に摂っていた。初めは戸惑い、なんとか断れないかと考えていた結架も、回を重ねるごとに慣れていき、少しずつだが、マルガリータとの会話を心から楽しむようになっていた。

 この日、結架は特に何も予定していなかったので、夕食を済ませると、ホテルの自室で一人、楽譜に目を通したり、ギリシャ神話の本を読んだり、花の図鑑を眺めたりしていた。ヴェローナで鞍木とギリシャ神話の話をしてからにわかに関心が高まったのだ。風の娘と同名の花、アネモネのページを読んでいたところで、電話が鳴り出した。

「はい?」

 英語の声が慎み深く告げた人物名に、結架は狼狽した。周章しゅうしょうと焦慮が結架を支配して、一瞬、彼女は取るべき行動の判断に苦しんだ。こんなときの為のマネージャーである鞍木は留守中だが、まさか取り次がないでくれとも言えない。短い逡巡の間に結架は腹を括った。このうえは何を言われようとも動揺などするものか、と決意すると、短く許諾の意を伝える。

 相手の声が聞こえるまでの数秒間、結架は深呼吸に努めた。

「──こんばんは、結架さんですか?」

 涼やかな声に、一瞬、息が止まる。

「はい。こんばんは、集一さん」

 昼とは違う、堅苦しい日本語が続いた。

「このような時間に、突然、電話などしてしまいまして、非常に礼を失するとは思います。申し訳ない。不躾だと思われるでしょうが」

「いいえ。構いませんわ」

 楽団の皆がいれば砕けた口調の英語で話すようになっていた彼だが、日本語で話すときは、まだ張りつめた感じが抜けない。しかし、結架には却って話しやすくなる。気安く話しかけられても、結架にはそれを返すことが出来ない。

「今、邪魔をしているのではないですか?」

 尻込みしているかのような言葉に、結架は慌てた。困惑が伝わってしまったのかと、自責する。

「いいえ! ちっとも。話し相手がいなくて、時間を持て余していましたもの。ですから、そのようなことは気になさらないでくださいな」

「それなら良いのですが……」

 言い澱んでしまう。結架は首を傾げた。なんだか、いつもの彼らしくない。その声からは清々しい精彩が消え失せ、言葉からは穏やかな明快さが抜けている。

 電話回線の向こうの気配が、随分と困却しているように思えて、結架はどうにも放っておけなくなってしまった。呼吸がうまくできない。いつも普通に吸っている空気が、急に薄く感じられた。胸に何かが詰まっている。

「何か、お困りのようですけれど、どうなさったのですか? 私に出来ることでしたら、何でも仰ってください」

「いえ、それは、でも……」

 困頓こんとんの極まった、切迫した声が返ってきた。結架には益々、看過できない。

「集一さん。私、貴方のお役に立ちたく思います。ですから、仰ってみてください。その為に、こうして、お電話をかけてこられたのでしょう?」

「それは……そうなのですが……」

「では、仰って」

 それでも数秒の間が空いた。結架が沈黙を保っていると。

「ご迷惑になるだろうことは……重々承知しています。でも、あの……結架さん。貴女はピアノも弾かれるのでしたね」

 思いもよらない質問に吃驚びっくりして、結架の反応は遅れた。何故、そんなことを尋ねられるのか。

 ピアノとチェンバロでは、奏法どころか、発音の機構自体が根本的に違う。それを知る者にとっては、ピアノが弾ければチェンバロも弾けるというのは乱暴な論理である。鍵盤を叩くだけが演奏技術ではないのだから、逆もまた、然りだ。

 だが、結架は自分の指を見つめて答えた。

「え……? え、ええ……初めはピアノを弾いていましたから。オルガンは弾けませんけれど。でも、それが……?」

「今でも、お弾きになれますよね」

「それは──」

 無理だ。

「練習さえ、できれば」

 その、練習が問題でもあるのだが。

 しかし、正直に言うのは躊躇われた。

「人前でも?」

 普段の彼からは想像もできない、弱々しげな声が続く。

 結架の心から重りが完全に消え、何も疑わず、彼女は質問に答えた。このとき結架は、長年に亘って心を縛りつけてきた苦しみから脱していた。集一の懊悩を感じとって、それは彼女の心に感知されなくなっていた。

「過去に弾いたことのある曲でしたら、大抵は大丈夫だと思いますわ。ただし、今となっては、とても出演料が戴けるような演奏ではないでしょうけれど」

「それでも、弾けるのですね」

 性急な調子の問いかけに、思わず反射的に明瞭はっきりと結架は応える。

「はい」

 彼女の答えが伝わるが早いか、良かったとも、その反対ともとれる複雑な感情の入り交じった空気の振動が、微かに結架の耳に届いた。その小さな気体の揺らぎに、彼女は呼吸を忘れそうになった。喉が縮むような沈黙が訪れる。

「……集一さん……?」

 長々と横たわる静寂に不安になった結架が、そっと呼びかけると、集一の、呻くような声が返ってきた。

「僕から仕事を受けてくださいませんか、結架さん」

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