第9場 天使たちの音楽(1)
六人が休憩時間終了刻限すれすれで劇場に戻ると、フェゼリーゴ、マインツ、メイナール、ストックマイヤーの四人は、既に音合わせも終えていた。彼らは、音楽家ならば必ず知っている、練習用に作曲された『弦楽のための協奏曲』を演奏していた。
結架たちは音を立てないように部屋に入ると、静かに四人の演奏に聞き入った。
滑らかな弦の奏でる旋律が完全に和した音の波を生み出すさまは、説明のつかない、魔術のようだった。美しい音色と
──天使。
結架は鳥たちを見て、そう思っていた。
愛らしい、弾けるような囀りだけを残して、結架の心に広がる空を翔びまわった彼らは、荘厳な光と共に雲すら届かない高みへと昇っていく……。いつ、戻ってくるかと待ち侘びる結架を、哀れんでもくれずに。
気がつくと演奏は止んでいて、かわりに五人の手が鳴らす拍手の音が響いていた。結架も、慌てて拍手を送る。
「ブラーボー!」
感激したアンソニーは叫び、フェゼリーゴと握手を交わすと、マインツ、メイナール、ストックマイヤーの肩を次々と抱き、礼讃の気持ちを伝えた。結架と集一、レーシェンにマルガリータ、カルミレッリも、それぞれに称賛の言葉を四人に浴びせる。
フェゼリーゴが一礼した。
「ありがとう。どうだね、君たちも、加わらないか。まだ戻ってこないメンバーを待たなければならないことだし」
「まあ、素敵!」
驚いたことに、真っ先に歓声を上げてフェゼリーゴの誘いに乗ったのは、どうやら彼と反目しているらしいマルガリータだった。すぐさま彼女は身を翻し、自分の
アンソニーはヴィオラ、レーシェンはチェロ、そして、カルミレッリはコントラバスを、それぞれ楽器に合った愛用の弓と一緒に手にして、弦楽器奏者の群れに加わる。マルガリータと同じく、皆と音程が一致しているか確認するために。
結架はチェンバロの蓋を開けて鍵盤を叩き、音色を確かめると、合図があるまで楽器をかき鳴らした。独特の響きは優美にして、典雅だ。そして、また、華麗であり、荘厳。まったく、チェンバロの音があるだけで、室内は異空間へと通じる。弾き手が恐ろしく美しいと、尚更に。
弓を動かす手を止めて、カルミレッリは、ポルトガル王女を描いたティッツィアーノの絵画を思い出した。あの絵の中で王女が纏っていた衣装を、是非とも結架に着てみてほしい。
少年らしい夢想を抱きながら、カルミレッリは視線を移動させた。水に浸したリードの水分を柔らかい布で落とし、さらに浸透の具合を整えるために、さかんにそれを吹き鳴らしている集一へ向けて。彼の祖国に歴史上の美青年が何人いるかは知らないが、彼はそのなかでも、最高位の一人だろう。
カルミレッリが育った混血人種の国イタリアにも、信じ難く美しい男性は数多くいる。神話や伝説上だけでなく、サンツィオ・ラッファエッロや、ジュリアーノ・デ・メーディチなど、実在した人物も有名だ。
ラッファエッロは聖母子画を描かせたら横に並ぶ者なし、とまで言われても全く不思議ではないほどの大画家で、その整った姿は、ヴァザーリの『美術家列伝』や自画像からも窺い知れる。ジュリアーノは高名なフィレンツェの名家の当主の弟で、若くして聖職者の手により暗殺された。彼の容姿の端麗さは、兄ロレンツォのお抱え画家であったボッティチェルリが、弟の突然の死を悲しむパトロンに請われて、美貌の死者を名画『プリマヴェーラ』の左端画面に、冬の霧雲を振り払う神々の使者メルクリウスとして描いている……という説を聞いたなら、誰でも認めずにはいられない。だが、彼らの前に立ってさえ、集一の美貌は陰らないだろうと思われた。
その集一は、水分をほどよく吸ったリードのコルク部分を楽器の頭頂部に開いた穴に差しこんでいた。そして、楽器を吹きだす。
カルミレッリはため息を漏らした。彼を前にすると、自分の
「そろそろ、宜しいかな」
不意に飛びこんできたフェゼリーゴの声に、カルミレッリは無益な憂いから解き放たれた。
全員が頷き、いつでも第一音を放てるよう、呼吸を整えた。カルミレッリも頷くと、弓を持ち直して合図を待つ。フェゼリーゴが顎の下に楽器を挟む。
「シューイチは、即興で自由に吹いてくれ」
彼は、小さい驚きの表情を閃かせたのち、艶やかに笑んだ。
「はい」
フェゼリーゴの腕が動いた。
ヴァイオリンとヴィオラが流れ出て、それを追うようにチェンバロが入り、チェロとコントラバスが隙間を埋める。間合いをはかっていたオーボエが加わった。
弦楽器奏者たちは不思議な感覚に包まれた。まったく新しい音色の旋律が主旋律と絡み合いながら、絶妙な響きを生んでいく。少しも違和感を持たせずに。
ヴァイオリンの主旋律に変化が起きた。オーボエを際立たせるためにか、本来とは違う弓捌きで即興を重ねていく。敏捷さはオーボエに譲り、堅実に、質素に補佐を務めた。オーボエでは及ばない部分は補い、オーボエの持ち味が充分に出される部分では主張を控えて演奏する。その技術と感覚は、世界でも類を見ないだろう。フェゼリーゴの独擅場だ。
まだ食事から戻ってきていない、ロレンツェッティ、ミケルツォ、アッカルドの三人とも、この演奏を共にしたかった。これほど素晴らしい演奏を、三人が欠けた状態で味わうのは、あまりに惜しく、もったいない。
ほぼ全員がそう思ったとき、まるで思念が伝わったかのように彼ら三人が現れた。言葉をかけることもかけられることもしないで三人は楽器を手にして部屋を出ていくと、程なくして戻り、当然のように演奏に加わった。三人分の楽器が増えただけで、音楽の響きは深く、広くなり、厚みを増す。
喜びのあまり、結架は楽譜に書かれている音符も休符も、忘れてしまった。フェゼリーゴと集一と同じように即興で演奏していく。
バロック時代、演奏家には、即興の知識と技術が必須とされていた。当時、音楽の本質はあくまで演奏にあるもので、〝楽譜〟とは単なる記録手段に過ぎないと考えられており、作曲家が、つくった曲そのままを楽譜に書き記すことはなかった。よって、バッハ以前の時代に作曲されたものを演奏家が楽譜どおりに演奏しても、作曲家がつくった音楽にはならないことが多い。つまり、即興部分を的確に埋めて演奏しない限り、原曲の持つ生来の素晴らしさは生まれない……ということだ。しかし、それはむしろ当時の常識で、即興で装飾ができない音楽家は一人前とは見做されなかった。
バロック音楽を志す者は、
穏やかなる第二楽章が奏でられる。チェンバロの音が一番目立つ楽章だ。さりげない、ほんの一瞬の空間を、弾かれた弦の優しさが埋めていく。と、思う間もなく急激な第三楽章が始まる。激しいほどでもなく、迸るでもない、理性的な情熱。それが冷めやらぬまま、終熄の音は刻まれていく。華麗に。そして、流麗に。
僅か四分にも満たない、短い協奏曲だ。けれども、全力で奏でた彼らには軽い倦怠感が広がっていた……が、それは一時的なものであり、すぐに沸沸とした情熱が生まれてきて疲労を跳ね飛ばしてしまうのは、誰の目にも見えている。
いち早く情熱に疲れを消されたマルガリータが、元気いっぱいに提案した。
「全員揃ったことだし、そろそろ本腰を入れない?」
余韻を楽しんでいた者は、すぐに我に返った。
「そうだね。まだまだ、試したい
合同練習は、夕方まで続いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます