第8場 魅了(5)

「ああ、良かった。食べそびれるかと思ったら、気絶するかと思った」

「大袈裟ね。わたしは絶対に箸で食べてみせるわ」

 マルガリータが強固な決意を表明したが、力一杯に宣言したのは良いものの、矢張り苦戦している彼女に、時折、結架が助言する。

「下側のお箸は極力動かさないようにするのよ。そして、上側は人差し指と中指で、手を握るような感じで動かすの。上のお箸の両端が互い違いに、それぞれ下のお箸の両端にぶつかるようにね」

 マルガリータは右手の指の動きに集中する。何度か箸を落としそうになったが、やがて、だんだんと動きが滑らかになっていった。

「そうそう、上手よ」

「見て!」

 小さな鉢に入れられた紅白なますの細かく刻まれた大根を摘んで、そのまま宙に浮かせてみせると、マルガリータは得意気に叫んだ。先に箸を進めていた皆は彼女の声に顔を上げてそれを見て、小さな歓声を上げる。

「うわあ、凄いね」

「これは驚いたな。俺は、そのくらいに箸を扱えるようになるまで、何時間もかかった」

「わたしは数日よ」

「上達が早いんだね。迚も器用だ」

 幼子のように喜ぶマルガリータを手放しで褒める。それから六人は料理に集中して舌鼓を打った。

 向付むこうづけ、煮物、焼物……と、順調に皿が空になり、一汁三菜が完結して、強肴しいざかなの器が来る。実際の本格的な懐石では、向付の前と、この強肴、その後の八寸はっすんで酒が出される。だが、今日は、それを省いてもらった。もともと、イタリアの人々に懐石の雰囲気を味わってもらおうと始めたという、この店の料理の出し方などは、それほど本来の懐石料理の作法のままではない。年に五度くらいは主に常連の客に招待状を送り、茶事を催して、炭点前から薄茶まで作法に則り進められるということだが、一般の客には稀に茶道教室を開いているくらいである。

「これは、海鼠なまこと烏賊かしら」

 二つの小鉢がくっついた形の器を覗いた結架の呟きに、マルガリータがぎょっとする。

「海鼠⁉︎」

「苦手なのか? レーシェンと一緒だな。俺は好きだけど。──うん、旨い」

「だって気持ち悪いじゃないの。軟体動物は女の仇敵! 節足動物は女の宿敵!」

先刻さっきは貝を食べていたのに? カニも食べてたじゃないさ」

「解ってないわね、カルミレッリは。まず、カニは動きが緩慢で気持ち悪くないから、例外。それに、浅蜊なんて、まだ硬いほうだわ。問題は、牡蠣とか海鼠の類よ。ぶよぶよとして、ああ、気持ち悪い!」

 結架が進めていた箸を止めた。

「私はそれほど厭ではないけれど……。なかなか美味しいわよ、マルガリータ」

「ユイカって、変な娘ね。どろどろヌルヌルてかてかムニョムニョは大嫌い、が、普通じゃない」

 フランス料理で育った人間の言葉とも思えない。

「それは言い過ぎだけど。でも、これは、ねえ……。姿形が、ぼんやりしてて」

「何を言ってるんだ、レーシェン。エスカルゴは好きじゃないか」

「あれは殻があるじゃない」

 どうも、基準が理解を超えている。マルガリータもレーシェンも、形がどうのというより感覚で毛嫌いしているのだから、それほど明確な線引きはないのだろう。

「とにかく、これは厭。はい、アンソニー。貴方にあげるわ」

 レーシェンが夫に押しつけると、マルガリータも便乗して鉢を彼に押しつけた。厄介なものを上手く処理できて、二人は安心して一息つく。

 二人分もの塩辛を余分に食べさせられる羽目になったアンソニーはというと、嬉しそうに食べながらも、何やら少々、不満に感じたようである。集一に向かって唆しを始めた。

「なあ、こう、飲み物が欲しくなるよな。鼻にくる奴」

「よく冷やした日本酒?」

「それ!」

「駄目よ、アンソニー。午後も合奏があるんだから」

「それは、解ってる」

 不服そうに、しかし、彼は妻の言うことに頷いた。いけないと判っているからこそ欲しくなってしまうものだ。そう思った矢先。酒の肴として出されるべく決められている料理が届いた。杉の折敷に乗せられた、川魚と松露松だった。アンソニーがアルコールを恋しんでいる目つきでそれらを口に運ぶ。そのあとには、湯桶ゆとうと香の物が出された。

 炒り米を煮て塩で味を調えた汁物は、ほんのりと優しい味だ。その、欧州人には風変わりな品を味わいながら、六人は、咀嚼の疲れが和らぐのを感じた。心地好い沈黙が数秒続き、カルミレッリが柔らかに声を振るう。

「この後は?」

「……この後は、お濃茶だろ」

「お濃茶?」

「碾茶の一種だと聞いたけど」

 レーシェンが碗を手にしたまま言ったが、カルミレッリは首を傾げたままだった。その様子を見て、集一が捕捉する。

「緑茶を茶臼で碾いて粉末にしたのが碾茶で、つまり、抹茶だね。その碾茶を練るようにして濃く立てて、泡をたてないのが濃茶だよ。一般的に濃茶に使う碾茶は比較的樹齢の多い木から採った若芽を製した上等なものが多いんだけどね」

「へええ……」

 ここまで詳しいと、ただただ恐れ入るしかない。結架は思わず感心した声で言う。

「本当に良くご存知ね……」

「いや、以前、ここの女将にね、教えてもらったんだ。だから、そんな大したものではないさ」

「また、謙遜するんだから。感心しない癖ね、シューイチ」

「たしかに。日本人って、褒めても喜んでくれない人が多いよな。それが美意識だって思うらしいけど、俺から見ると単に自信がないだけじゃないかと思うよ。それほど自信が持てないって、なんなんだろうな」

 腕組みしたアンソニーを、その通り、と言いたげに妻とその友人が見る。気弱な笑みで結架が応えた。

「自信って、どうして生まれるものなのか、分からないことだってあるわ」

 カルミレッリが膝を崩した。

「ユイカは自信がないの?」

「ええ、そうね」

「自分の何が信じられないの?」

 結架の双眸に戸惑いが浮かぶ。しかし、カルミレッリは構わず続けた。

「見た目? 性格? 才能? 頭脳? それとも、体力とか、器用さとか?」

 なんと答えたら良いか、俄に判断がつかず、結架は困惑した。

「どれにしたって、それはユイカの一面に過ぎないでしょ。誇れるものが何もないなんて、あり得ない。ないと思ってるなら、そんなの間違ってる。まだ、その長所に気づいてないだけだって」

 結架は無言で考えこみ、他の四人はカルミレッリに対する評価を改めた。子どもだと思い侮っていたが、一七歳という年齢に相応しく、悟ったようなことを言うものだ。口調や表情で幼さを感じさせてしまう彼の性質は、その反面、安心できた。相手が無防備だと、警戒心も薄れるものだ。

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