第8場 魅了(4)

「どこでお聞きになったのですか。殆ど歴史に埋もれた作家ですよ」

「埋もれたなんて! オークションでは、一巻、数万ドルはするわよ。作品数が少ないから、年々、評価が上がり続けてるじゃない」

「そんなに?」

 マルガリータの言葉は、西洋絵画や彫刻にしか興味がない者の発言だ。

「水墨画の保存状態は大体が最高なのよ。フレスコ画だと、描き方によっては途方もなく弱いけど。二年前に修復を終えたレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』なんて、修復前は、それはもう無残だったでしょう? まあ、あれは、フレスコ画と呼ぶには描く手法が違ってて、無理もない傷み具合だったのだけど。

 ──それにしても……こんな凄い部屋に通してもらえるなんて……貴方、一体、何者なの?」

 レーシェンの疑懼ぎくで緊張した声が放った言葉が、結架をぎくりとさせる。彼女も同じことを考えていたのだ。

 先程、都美子は集一を『集一さま』と呼んだ。そして、彼の両親についても知っているようだった。馴染みの客としてならば、〝さま〟を付けるのも変ではないが、それは姓に付けて使われるべきだろう。それに、互いの肉親についても、よく知っている様子だった。家族ぐるみの交流があるということは随分と親しい間柄だろうが、それでも集一のほうが可成り年下であるはずなのに、都美子は最上級の敬意を込めて〝さま〟と呼んだのだ。どれほど親しくとも、『集一さん』と呼ぶのが自然であろうに。

 集一は、何者なのか。

 彼のことを、よく知らない、という強い不安が結架の胸をよぎる。なにも知らずにいるのは、この場合、不快だった。

 ──この場合?

 どんな場合だというのだろう。

 結架は自分の頭に浮かんだ言葉を不審に思う。

 我に返ると、全員が集一を見つめていた。

 マルガリータが口を開く。

「シューイチ?」

 はにかむような、そして、困ったような、控えめな微笑。

「そんなに硬くならないでください。僕は、ただのオーボエ奏者ですよ」

「本当に?」

「ええ」

 なにを気にしたものか、集一は確かめてきたマルガリータではなく、結架のほうを見て答えた。結架の正面であり、そして集一の左側である席に腰を下ろしていたカルミレッリが身を乗り出して、二人の視線を遮断する。尤も、彼自身は無自覚、無意識にそうしたのだったが。

「やだなぁ。みんな、どうでもいいじゃない、そんなこと。これは親交を深める会なんでしょ? 詮索して、どうするのさ」

 緊密さを叩き割ってから、カルミレッリは日本人二人に対して要望した。

「それからさ。シューイチもユイカも、もう少し言葉遣いとか態度とか、緩ませてよ。でないと却って遣り難いんだよね。居心地よく過ごしたいじゃない」

 子どもっぽい彼の仕草と口調が全員の意表をついて、室内は一気に和んだ。カルミレッリの無邪気な言い様に、思わず吹き出してしまう。結架は、ついに防御を放棄した。

「まったく、可愛いわねぇ、カルミレッリは」

 笑いを抑えながら、マルガリータが言う。すると、結架も、

「本当に。なんだか弟ができたみたいだわ」

「おや、弟、かい?」

 意味ありげにアンソニーが横目で結架を見やる。その向かい側から、彼の妻が言った。

「わたしは息子ができたみたい」

「待ってよ、ぼく、そんな幼年としじゃないんだよ!」

「解ってるわよ。し本当に貴方がわたしの子だとしたら、わたしは貴方を、貴方の歳じゅうななさいで産んだことになるじゃない」

「つまり、俺は一四歳で父親になったということになるわけだ」

 集一が笑い出した。その、今まで堪えていたものが一挙に噴き出したかのような、解放された笑い声に、五人は驚きのあまり硬直してしまった。彼が声を上げて笑ったのは、これが初めてだった。

 言うべき言葉に迷っていると、集一は短くも深い笑いの底から浮かび上がってきて、皆に微笑みかける。

「不思議だな……。貴方がたと話していると、なんだか心安い気持ちになってくる。今まで言葉遣いや態度のことなんて少しも疑わずに貫いてきたけど、それが無益なことに思える。自分の気持ちに逆らっているような……」

 自嘲するように、そして、信じられないと言うように、彼は小さく呟いた。ずっと忘れていたことを思い出した、としか言いようのない気持ちで。

「集一さん……」

「きっと、貴方がただから、こんなふうに落ちついた気持ちになれるんだ。長いこと、言葉遣いは仮令たとえ嘘でも相手が敬意を感じられるように気をつけろ、と、教えられてきて、それが当たり前になっていたのに」

 ──親友以外には。

 そう思いつつ、集一は、初めて心から嬉しそうに微笑んだ。それは、今まで決して外されることのない生活を強いられてきた抑圧の枷が、音を立てて外れ落ちたことの証明だった。清々しい彼の微笑に、なんとなく他の者も和んだ。

 ──ひとりの人間の微笑みが、これほど平安をもたらすなんて。

 結架がそう思ったとき。

「失礼いたします」

 声がして、すらりと襖が開いた。襖を開けた女性の後ろに盆を手にした都美子がおり、さらにその後ろにも同じように手に盆を持った二人の女性も控えている。

「お待たせいたしました。懐石風のコースでございます」

 都美子の声を合図に、盆の上の器が運ばれ、卓上に並べられていく。早速、カルミレッリは箸を握ったが、二本の棒をどう扱えばいいものやら、困りきって集一に援けを求めた。

「これ、どう持つの?」

「こうだよ」

 親指の付け根と、人差し指と中指の間に挟んだところを見せてやると、カルミレッリは複雑そうな表情かおをした。見ると、結架もマルガリータに箸の持ち方を教えている。アンソニーとレーシェンは、日本食を堪能した経験があると胸を張っていただけあって、すっかり箸に慣れているらしく、得意そうにカチカチいわせている。

「うーん、難しいわね、オハシって」

 わざと日本語で言ってみせて、マルガリータが首をひねる。よくも二本の棒なんて食事用器具に選んだものだ、と、彼女は感心した。

 結架を見ると、彼女はすっかりリラックスしているようだった。

「西洋人がフォークを思いついたのだって、私から見れば凄いことよ」

「そうかなぁ? そりゃあ、ユイカは日本人だから、そう言うけど。こんなの、子どものうちから持たされてなきゃ、使い熟せないよ」

 不貞腐れて、カルミレッリが到頭、音を上げた。すると、都美子が含み笑いを浮かべて竹籠に入れたナイフとフォーク、スプーンを差し出した。

「こちらをどうぞ」

 カルミレッリが安堵の息を漏らす。

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