第8場 魅了(3)

「どうかしましたか」

 日本語の囁き声に顔を上げると、集一の整った造りをした顔に、彼女を案じる真剣な表情があった。

 こわばった頬を無理に動かし、唇を微笑みの形に持ち上げて、結架は応えた。

「いいえ、ただ──驚いてしまいましたわ──トリーノに日本庭園があるなんて」

 それ以上の追求を拒む、非礼にならない程度に抑えた、しかし意識的に発された、よそよそしさをこめた音質を、集一は彼女の声に聴きとった。しかし、その真っ白な額に浮かんでいた灰色の動揺を、しっかりと見ていた彼には、鵜呑みには出来ない言葉だった。

「凄い。見てよ、この水車。ちゃんと回ってるよ。きっと、本物と同じなんじゃないかな」

 興奮したカルミレッリの声に呼ばれて、結架は明るく返した。

「ええ、すてきね」

「中はどうなってるのかしら。ユイカ、日本の水車小屋にも粉挽きの役目があるの?」

「ありますわ。蕎碾そばひきの水車小屋があると聞いたことがありますの。見たことはないのですけれど」

 手招きに応えて近づいていく彼女の後ろに集一が続いた。その表情を見て、マルガリータが片方の眉を上げる。

「まあ、いやだ。シューイチってば、そんなに心配そうなかおをして。いくらわたしたちでも、まさか屋根を外してみようなんて、しないわよ。警戒しなくて大丈夫」

 マルガリータは天性のコメディエンヌだ。

 集一は思わず苦笑した。

「それは失礼をいたしました。でも、お望みとあらば、後ほど見せてもらえるよう、頼んでみますよ。行きましょう」

「あら! 気が利くわね。それじゃあ、宜しく」

「ぼくも。ぼくも、見たい!」

「よしよし。そうと決まったら、さっさと行こうぜ。とにかく食事だ」

 店の正面入り口に着くと、高さ一メートルくらいの椿の木が両脇に二本、植えられていた。この店のシンボルとしての役割も果たしているらしい。開花時期ではないため、葉しか枝についていないが、津葉木つばき──艶葉樹つばき──という、その名の由来のとおりに見事な光沢をした艶やかな葉だ。単純で意外性には欠けるが、おそらく花の色は紅白なのだろう。

 格子扉の中に和装で身を固めた女性が佇んでいた。

 一礼し、いつものように歓迎の言葉を発する筈だった唇が開いたまま、一瞬、硬直した。反射的に品の良い口元を袖で覆う。その驚きが綻びた瞬間、彼女は喜びのあまりにイタリア語も英語も忘れてしまったようだった。

「まあ……! 集一さまではありませんか。お久しぶりでございます。誠一せいいちさまや弦子ふさこさまは、お変わりございませんか」

 ──集一さま?

 怪訝な顔つきをした結架の視線に気づいて、集一は羞ずかしそうに失笑した。それから一歩進み出て、和服の女性に挨拶する。

「ご無沙汰していました、都美子とみこさん。お元気そうで、なによりです。このごろは滅多に会えないと誠晶まさあきさんや亜杜沙あずさちゃんが寂しそうでしたけど、父と母は相変わらずですよ」

「それはうございました。誠晶おっと亜杜沙むすめには申し訳ないのですけれど、わたくしがここを動くわけには参りませんので、仕方がないのです。でも、今年も夏休みに入ったら、こちらに来るという手紙が届きましたの。ですから、もうすぐ会えますわ。ところで今日は──あら」

 彼女は集一の後ろに立つ五人の姿に目を向けて、急いで一礼した。結架を見て表情が揺らいだが、一瞬だったので誰も気がつかなった。彼女は流暢なで非礼を詫びた。

「これは失礼をいたしました。わたくしは、この店の女将でございます、都美子とみこ椿つばきと申します。ようこそ、お出でくださいました」

 柔和な声が、一同の疲れた心を優しく解きほぐす。とびぬけて美しいとまでは言えないが整った優しげな容貌の持つ雰囲気は慈母という言葉にぴったりで、結架は亡くなった自身の母のことを考えた。もしも生きていたなら、こんな感じの印象だろうか、と。

 ゆるゆるとした、滑らかな動きで都美子は六人を導き、店内を楚々と進んだ。襖の並んだ廊下を歩いていくうちに、ここが日本ではないのかという錯覚を覚える。曲がり角の壁には細い縁の丸い額に入った椿の絵が掛けられ、その先には見事な生け花が鎮座する。

 中庭に面した一室に通された六人は、その部屋の調度に目を見張った。

 埃も滑ってしまいそうなほど磨きぬかれた卓面は、窓からさす陽光を浴びて、鏡張りかと思うくらいの輝きを発している。細かい目の隙間まで丁寧に掃き清められた畳の上には柔らかそうな座布団が疲れた足を待っているし、銘のありそうな壺や堂々たる風情の衝立が、室内の和みに威厳を齎している。

 注文を終わらせると、六人は一息ついた。

「どうやら、この部屋はVIP専用室だろうな」

 座布団の上に慣れない正座をして室内を眺めまわしていたアンソニーが呟いた。カルミレッリが無邪気に聞き返す。

「なんで、そんなこと判るのさ?」

 アンソニーの指が、部屋の隅の板敷きに置かれた壺を示す。耳にまだ新しい固有名詞が、彼の口から流れ出した。

「あれ、時価で常に数万ドルはする代物だぜ。断言はできないが、日本の人間国宝になったキヨタカ・ウズイの作だと思う」

宇瑞うずい 瀞敬きよたか?」

 溜息まじりに叫んで、結架は壺へと視線を飛ばす。それは、浅葱色の絹の上に載せられていた。黒い塗りの上に桜の花が散っている。描かれた枝のしなやかさは触れれば弾かれてしまいそうだ。深い闇の中に浮いて、儚く散る、可憐な桜花の淡い色は、酷く切ない。それほどの大きさでもなく、控えめな情緒を持っているのに、強烈な存在感で座を占める。

 一同は感嘆の息を漏らした。

 ひとしきり眺めてから、結架は壺の横に下がる大きな掛け軸に目を転じた。山岳が雲を貫く豪壮なさまが墨で雄々しく描かれていて、絵心のない結架にも画面の迫力や画家の卓才が窺える。絵から伝わってくる自然への畏敬の念と深い情愛に打たれ、目が釘付けになっている結架に集一が気づいた。

「それは、今邑いまむら 紫紅しこうの作で、慥か『天望澄明てんぼうちょうめい』という題です。〝地の眺めは天の反映であり、地が澄めば天も安らぐ〟という文が台紙の裏に書かれている筈ですが」

「地が澄めば、天も安らぐ……」

「シコウ・イマムラっていうと、あの、水墨画の巨匠? 生地も生年も、没年すら不明の?」

 結架の声にレーシェンの言葉が重なった。どうやらペーソン夫妻は美術品にも詳しいらしい。のちにマルガリータが語ったことによれば、アンソニーとレーシェンは休日に美術館を幾つも回るほどの美術かぶれで、結婚の契機きっかけも、それにあるのだという。

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