第5場 盃のみが知る懸想(5)

 カルミレッリの前に水のグラスとカップが置かれた。カップの縁からは、黒い紙テープを巻かれた甘茶色の棒が伸びている。肉桂の樹皮を筒状に巻いた棒は独特の甘い香りを放ち、六人の鼻をくすぐった。

「懐かしいな。風邪をひいたとき、こういうの、よく飲まされたんだ」

 シナモンスティックを持つカルミレッリの指は、ワインをというよりも思い出をかき混ぜている。棒の先が緩やかに円を描いて、カップの中に渦が起こる。

 聖母崇拝に繋がる、母親マンマを愛する心──とくに息子の持つそれ──を最上級に尊ぶイタリア人の価値観は、近年では次第に弱まっているようだが、カルミレッリは未だ母親崇拝マンミズモの信徒でいるらしい。「ちょっと失礼させてもらうよ」と言うなり席を立ち、飲み物が冷めるのも気にすることなく、片隅の電話機に向かって行った。

「まさにイタリア男、というべきかな? な、シューイチ」

 グラスを片手に、アンソニーが隣に座ってピエモンテ産ワイン『バローロ』を口に含む妻の向こうへ話しかける。白い発泡ワインを味わいながら黙って仲間の会話に耳を傾けていた集一は、アンソニーの同意を求める問いかけに応えた。ひんやりとしながらも柔らかく澄んだ朝露に包まれた深い森を想起させる声だ。

「ありあまる尊敬を全て受け止めてもらえるなんて、カルミレッリは幸福しあわせですね」

 一瞬、誰もが押し黙った。

「……そうね。マルガリータには難しそうでしょうけど」

「ご挨拶だわね、レーシェン。母を敬わない子を、わたしが産むわけないでしょ」

「おや、まあ。それは楽しみね」

「それは、もう。聖母マリアに受胎告知した天使の気分でいて頂戴」

「まぁっ! 大言壮語もいい加減にしないと、しゅのお怒りに触れるわよ、マルガリータ」

 どうもこの二人は……というよりレーシェンは……かなり強気というか喧嘩っ早いというか、つまりは遠慮がない。

 絶え間なく打ち合う二人の舌鋒に圧されて、結架と集一は勿論、アンソニーですら口を挟むことはなかった。ただ、彼の場合、余程このような場面に立ち会うことに慣れているのか、身振り手振りを交えて時に激しく、時に穏やかにぶつけられる言葉の鉄球もどこ吹く風。小憎らしいほど清々しい顔で妻とその親友の論争を子どもの喧嘩を見てたのしむ親馬鹿のような様子で眺めつつ、二杯目のグラスを空けていた。

「あの……止めなくて、宜しいのでしょうか」

 グラスを置いて訊いてきた集一に、アンソニーは澄まし顔で応じる。

「いつものことさ。この二人が口論しないときなんて、喧嘩したときくらいだな。だから、気が済むまで邪魔しないほうがいいぞ。でないと、後で飛沫とばっちりをくらうからな。それに、二人にとっては、これが健康的な会話なんだ」

 二人が激論しやすいようにと言って、アンソニーは集一を自分の隣に来させた。互いに互いの発言を一言一句も聞き漏らさず、指摘や反論をかわして相手が吃驚びっくりすることを言ってやろうと狙っている二人は、アンソニーの声など聞き取ってもいないようだった。熱のこもった弁舌が展開される。

「ユイカも来るといい。これ、あと三〇分はゆうに続くぞ」

「いえ、私は……」

「いいから、来たほうがいい。そっちにいたままだと、興奮したマルガリータに後ろ手で殴られかねないぞ。そうなったら、君だけじゃなく、マルガリータも怪我をする」

 集一の隣に座ることに尻込みしていた結架は、その言葉に動かざるを得なくなった。マルガリータが我を忘れて手を後ろに動かすとしたら、それは遮る壁のないテーブル側。つまり左腕だ。万が一、その手を痛めるようなことになれば、ヴァイオリニストには致命的な傷だ。そこまで想像した結架は意を決して立ち上がり、グラスを持ち上げると、集一の方に向かった。そこへ、

「ごめん、ごめん。マンマってば、早く帰って寝なさい! なんて、無茶を言うんだもん。お小言が途切れなく続いて参っちゃった」

 照れ笑いを浮かべながらカルミレッリが小走りに戻ってきて、思わず振り返った結架を通り越し、集一の隣に腰を下ろした。

「あれ? どうしたの、マルガリータとレーシェンってば」

 なんとなく救われたような、しかし妨害を受けたような複雑な気分を抱えつつ、結架は黙ってカルミレッリの隣に座った。

「あー、ちょっとした意見交換だよ。気にするな」

「ふうん? それで、シューイチとユイカは避難したんだ。でもさ、これだけ動かれたら、普通は気づいて喧嘩を止めるんじゃない?」

「無駄、無駄。一度、噴火が始まったら、雨が降ったくらいじゃ止まらないだろ」

「噴火のときって、雨なんて降るの?」

 不毛とも思える会話をそこここで聞いて、集一が、いささか退屈そうにグラスを弄ぶ。その手つきが意外に子どもっぽかったので、結架は小さな笑いをもらした。その動作を見ただけで、なんだか彼女は集一を近くに感じた。

 他愛ない話や、取るに足らない言い争いをしながらも、それぞれの価値観や信念を理解し、認め合い、分かち合うことが出来ると信じて疑わない仲間を、結架と集一は同じ思いで見つめていた。

 穏やかな平和に浸っている者は、争乱の渦中にある者の心を見いだせはしない。それを証明するような姿があった。

 店内の隅に、暗い影を背にした者が座っている。黒く燃える情熱を秘めた瞳に、野心を支える頑健な腕。常に獲物を追い、情け容赦なく狩る猟師。或いは捕らえた生贄を一抹の同情も持たずに主人あるじに捧げる神官。

 その目は、まっすぐに結架と集一を見ていた。

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