第5場 盃のみが知る懸想(4)

 殉教者として名高い、マルガリタという名の聖女がいる。彼女は聖マリナとも呼ばれ、また聖ペラギアと同一視もされていたようだ。

 マリナはラテン語の『海』から派生した『海の』という言葉が女性名になったもので、ペラギアはギリシャ語で同じく『海の』という単語が固有名詞になったものである。そして、マリナは美と性愛の女神ヴィーナスと関係づけられてアフロディテ・マリナとも呼ばれていた。また、ヴィーナスとアフロディテは同一神で、ローマとギリシャで呼び名が違うだけと考えて良い。彼女は愛の神キューピッド──ギリシャ名ではエロス──の母とされ、地中海の東端に浮かぶキプロス島の守護神としても崇拝されている。

 神話では、女神アフロディテが生まれたのは、天空の神ウラノスの、息子クロノスに切り落とされてしまった男根が海を漂っていて生じた泡からだという。そして、彼女が最初に上陸したのがキプロス島だと伝えられていて、この情景が絵画で表現されているのは誰でも知っているだろう。

 ボッティチェルリの『ヴィーナスの誕生』に代表される女神の生誕場面には、真珠貝に乗って海からやって来たという構図が多い。それは、まるで女神自身が真珠として扱われているように思われる。たとえ貝に足を乗せていなくとも、例えば、ボッティチェルリの作より四〇年ほどのちに描かれたヴェチェッリオ・ティツィアーノの『海から上がるヴィーナス』では、海中に立ち、長くうねる豊かな髪をかきあげるように、あるいは髪に染み込んだ海水を絞るように持ち上げる女神の背景に、船のように波に揺らめく巨大な真珠貝が見えるのである。

 それらのこともあってアンソニーはマルガリータを女神ヴィーナスに擬えたのだが、それが詩的気分によるものか、それとも痛烈に皮肉ったのか、俄かには判断しかねた。しかし、どちらにしてもカルミレッリには意味のないことだった。彼は〝マルガリータ〟という名に窺えるさまざまな事柄を、いっさい知らなかったのだから。

「僕を見て〝アラ、どうしたの、ママと逸れたの?〟って、言ったんだよ。まったく失礼だよねぇ?」

 カルミレッリとマルガリータを除いて、みんな一斉に笑いだした。結架は忍び笑い、集一は苦笑い、アンソニーは大笑いでレーシェンは高笑いだ。それぞれの笑いを聞きながら、マルガリータは不機嫌そうに眉をしかめた。カルミレッリが憮然とする。

 結架は慰撫の必要を感じた。そこで、なんとか笑いを収めると、真向かいの席で溜め息をいているカルミレッリに笑いかけた。

「でも、それはきっと、貴方が迚も清廉で可愛こどもらしかったからだわ」

「あ、そうそう、それよ、それ。あんまり純真こどもっぽかったから、つい、ね。一二歳くらいかしら、と思って」

 結架の言葉に同意したマルガリータの声には、少々、必死の感があった。

「ほら、貴方って、顔つきからして無垢じゃない? 瞳なんて、とくにそう。夢とか未来とか希望とか、そんな言葉に、ぴったり。思春期の憂鬱なんて影も形もありゃしない」

「……それって、褒めてるの? それとも、馬鹿にしてるの?」

「なに言ってるの! そんなの当然でしょっ。何の為に苦労して言葉を探してると思うのよ。ぜーんぶ、貴方を褒める為じゃないっ」

 力強く断言したマルガリータを、カルミレッリは軽く睨んだ。その、平素はあどけない瞳に、侮辱を許さない光が顕然と見えて、マルガリータは少なからずたじろいだ。

「それは、僕に対する意地悪と解釈していいわけ?」

「あら……ごめんなさいね。嫌味とか皮肉とか、そんなつもりで言ったんじゃないのよ。ただ、わたし、語彙が少ないから表現が直接的すぎることが多くて。誇りプライドを傷つけたのなら、謝るわ」

 その声に真摯な響きが含まれていたので、カルミレッリは、すぐに機嫌を直した。狼狽と困惑を映し出した結架の顔を見たのも、理由の一部だろうが。

「そんなに気にしないで。僕も、余計なことを言ったのかも……」

「まあまあ。それくらいにしておけよ、二人とも。で、注文は何にする?」

 一瞬のアンソニーの視線に反応したテーブル係がすぐさま近寄ってきた。

「あ、えっと、英語は通じるかな」

 呼び寄せて初めてそこで思い至ったアンソニーが、一瞬、挙動に迷ってカルミレッリを見た。視線を受けた彼が大人びた表情で通訳をする。何を言ったものか、テーブル係の彼女は薄く笑った。ところが結架を見ると、何とも心許ない様子でいる。マルガリータが囁きかけた。

「ユイカ? カルミレッリは、なんて言ったの?」

「ごめんなさい……その……よく解りませんでしたわ。たぶん、シチリア方言ではないかと思いますけれど」

 結架の答えは歯切れが悪い。

「あら、そうなの。そういえばカルミレッリはシチリア島のパレルモ出身だったわね。貴女が習得したのはイタリア標準語なんでしょう? それって、どのあたりのものなのかしら。ローマ? ナポリ?」

 ヨーロッパ人がアジア人にする質問としては、あまりに奇妙だ。集一からするとマルガリータの意図を深読みしてしまうが、当の結架は何の疑問も見せずに素直に応じた。

「いいえ。トスカーナですわ。

 ラテン語がロマンス諸語に分岐していったことは、ご存知でしょう。イタリア語はロマンス諸語のなかで最もラテン語に近い響きを持っているといわれていますけれど、そのなかでもフィレンツェ方言は、さらに祖語に近いといわれています。それが標準語の基盤としてイタリア全土に広まったのはルネサンス時代。フィレンツェ方言を用いて著された、ダンテ、ボッカッチョ、ペトラルカの作品によって、なのだそうですわ」

「偉大な作家が文化を運び、定着させていったのね。フィレンツェといえばルネサンスの中心的な都市だったものねぇ……」

「ええ。ただ、そうした書き言葉が完成して、標準文語としての地位を立てたのは、ダンテらが生きた一四世紀よりも二世紀も後、一六世紀になってからですけれど」

「その間の経緯は興味深いわね。いったい──」

「ほらほら、そんな話は後にして頂戴。何を飲むの、マルガリータ、ユイカ?」

 レーシェンに会話を遮られ、二人は顔を見合わせたまま面目ない思いをした。一分も経たないうちにマルガリータはベルモット、結架はアンソニーに薦められてマルサーラ酒を注文した。カルミレッリが口を開きかけたところを、レーシェンが止める。

「そういえば、カルミレッリ。慥か貴方はまだ、一七歳でしょう。何を頼むつもりなの」

「え、何をって、果実酒。ごく、軽いやつだよ。誕生日ナターレには飲ませてもらえるような──」

 カルミレッリの言うナターレとは、キリストの生誕記念日──つまりクリスマス──ではなく、普通名詞としての誕生日という意味である。違いは単に表記法だけで、頭文字が大文字ならばクリスマス、小文字なら誕生日というように訳する。だが、レーシェンはどちらかさえ問わず、まったく無視した。

「駄目よ。脳細胞に悪影響が出るわ。貴方は香りつきのミネラルウォーター。悪いけれど、ユイカ。注文してくれるかしら」

 指名された結架は全身で不服を表すカルミレッリを微笑みによって宥め、彼には水を持ってきてくれるように頼んだ。しかし、一人だけそれだけではあまりにも味気ない。いくらなんでも不憫である。そこで彼女は、赤ワインを温めてアルコールを飛ばし、オリーブの実とシナモンスティックを添えたものを作ってもらえないかと尋ねた。大丈夫だという返事に笑顔を綻ばせると、驚いているカルミレッリの顔を見た。

「いいかしら、カルミレッリ?」

「あ……、う……、うん」

 イタリア語で会話を進めた二人を温順に見守りながら、なんとなくだが結架の考えていることを皆は見通していた。

 やがて、運ばれてきた大小様々なグラスと湯気を立ちのぼらせる一つのカップを見て、推察の正しさを全員が確信する。

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