第5場 盃のみが知る懸想(3)

 赤煉瓦の外壁はつたで半分ほど覆われ、鎧戸ペルシアーナが窓で外光を遮っている。ちらりと見た限りでは普通の住宅のようで見過ごしてしまうが、正面に回ってみると矢張り飲食店である。大きな看板が画架にかけられていた。

「ラ・コロラトゥーラ……技巧的な、派手な……或いは着色された、彩られた、という意味ね」

 レーシェンが看板を見て読み上げた店名はイタリア語の音楽用語であり、高度な技巧や装飾を誇らしげに披露する演奏様式や、音楽そのものを意味する。

 具体例としては、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲のカンタータ、第一九番『すべての地で神に歓呼の声を』のアリアや、アンブロワーズ・トーマの歌劇『ミニョン』でフィリーヌが歌う『私は妖精の女王ティタニア』、同じくトーマの歌劇『ハムレット』のオフェリアのアリアなどで、いずれも華麗で絢爛な歌曲である。

 とくにバッハのカンタータではトランペットの独奏旋律にも歌手同様に高い技術が求められ、さらに安定しつつも律動性に優れた敏捷さを必要とする。そのなかで空高く輝く星の如き三点ハの音や、神々しいまでにソプラノに寄り添って威厳を増すトランペットの響きは、まさしく天国的というほかない。

 美しさの一例であり極致を名に掲げた店は、表面的には素朴で落ちついた佇まいだった。

「では、入りましょうか」

 ミレイチェが手を伸ばし、暗褐色の扉につけられた真鍮のドアノブを掴む。開かれた入り口の向こうは、陶器製のランプシェードで抑えられた静かな光で充満している。あたたかで優しい色合いの光は蜜柑色に広がり、結架の頬に当たって、彼女の柔らかな振動精力はどうに吸収されていった。

「ようこそ」

 入り口の側に直立不動で立っていた娘が、丁寧に一礼した。

「ご予約を戴きましたミレイチェ・カッラッチ様と、お連れの方々でいらっしゃいますね。お待ち致しておりました」

 にこやかに、しかし失礼にならないよう気を配っている笑顔だ。

「申し訳ないことです。お席のことなのですが……八人席と六人席とに分かれてしまいますが、宜しいでしょうか」

 ミレイチェの顔に残念そうな表情がひらめき、すぐに消えた。即座に英語に訳して尋ねた彼に、皆、同じ顔つきで応える。許容と受諾の微笑みで。

「──どうやら構わないようですな。案内してもらおうか」

「承りました。どうぞ、こちらへ」

 声に微かに安堵を滲ませた先導者が一同を案内した。上品な程度に保たれた灯りの下を一四人がぞろぞろ進む。そんな光景を想像して結架が竦んだ瞬間、もう一人の店員が歩み寄ってきて、「六人様はこちらへおいでください」と招いた。何の相談もすることなく、マルガリータ、結架、カルミレッリ、レーシェン、アンソニー、集一の順で六人はその案内に従った。店内のほぼ中央に位置する、弾き手のいないピアノの横を通る。そのピアノが自宅にあるピアノの一台と同じファツィオーリ製だったので、結架は思わず見つめてしまう。

「八人様は、こちらでございます」

 念のために呼びかけた彼女には、当然のように分かれた残りの八名、ミレイチェ、フェゼリーゴ、ロレンツェッティ、マインツ、ミケルツォ、アッカルド、メイナール、ストックマイヤーが連いていく。三人だけの女性が全員、六人組の方へ行ってしまったことになるが、不満を唱える者は誰一人、居なかった。ミレイチェとフェゼリーゴを除く全員が既婚者であったから、それも当然といえば当然だが。

 少々神経質気味のカルミレッリは、他の客たちが、自分たちを興味津々で眺めてくるかと思うと居心地が悪くなったが、そのように無作法な人間は居ないようだった。しかし、稀に見る美男美女の一群に、さりげなく称賛の目を向ける者は少なくなかった。神経質なわりに、その意味するところには鈍感なカルミレッリは気づかなかったが、マルガリータやレーシェン、アンソニーなどは視線の性質を意識し、かつ無視していた。集一はというと、まわりの人間にはまったくの無感覚でいる。そして結架は──外見はどうあれ内心では萎縮しきっていて、それどころではなかった。

 実は、結架はミレイチェのいる輪……つまり集一のいないほうの組に行こうとしていたのだが、マルガリータの迫力ある微笑つきの手招きには逆らえず、怖々こわごわ六人組に加わったのである。だから、馬蹄形の長椅子に並んで腰掛けるとき、自分の視界に集一が入らぬよう、まして彼の隣にはならぬよう、思わぬ苦心を強いられた。

「凄かったね、さっきの人」

 結架の真向かいの席を獲得してご満悦のカルミレッリが、案内係の娘が黙礼して去っていくと、感嘆の声を上げた。

「何が凄かったですって?」

 彼の隣に腰掛けたレーシェンが、息子を見るような目で彼を見やる。

「だって、こっちの人数を一目で看破したじゃない。八人と六人、あわせて一四人って」

「ああ、あれは……」

 レーシェンは口ごもり、集一が微笑む。カルミレッリの言葉を打ち消したのは、アンソニーだった。

「ミレイチェが人数も伝えていたんだよ。あの女性ひと、最初に〝予約を戴いた〟って言っていただろ」

「ああ、そうか……。そうだっけ」

「うっかりさんねぇ、カルミレッリは」

 揶揄う甲斐があるものだ、という意味をこめて笑い、マルガリータは嬉しそうに指を回す。

「ひとのこと、言えないだろ、マルガリータは。僕を最初に見て、なんて言ったっけ?」

 思いもよらぬ逆襲に、マルガリータの瞳が狼狽を映す。してやったり、と言うように、カルミレッリは得意気な笑みを見せると反撃を続ける。

「傑作だったな、あれは。一体、どういうひとかと思ったよ?」

「ほう、なんと言ったんだ、この〝海から生まれた真珠の女神マルガリータ〟は?」

 マルガリータという名の語源はいくつもの説があるが、その中に、ギリシャ語で〝真珠〟という意味の単語がある。margaritesという、この単語が意味するものは寓意的にも広く、真珠そのものもあるが、清浄と純化、そして救済をも表している。

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