第4場 邂逅(4)

 探し求めてきた、心を奪われる、甘い……。

「構わないよ、シューイチ。まだ予定の時間より早いくらいだ」

 腕時計を見て、ミレイチェが言う。

「そう……ですか」

 少し息が上がっている。楽器を吹く者は肺を鍛えているのでそう容易たやすく呼吸を乱さないが、一体どれほど急いで来たのだろうか。むしろ、好意的な視線で彼を見ながら、鞍木は考える。それから、隣の凍結したような空気を感じとって、結架を顧みた。

 結架は茫然ぼうぜんとしている。古い名画に描かれた人物たちのなかの見慣れた一人の姿が現実に実体を持って現れて、驚きのあまりに動けなくなったとでも言いあらわせばよいか。そんな状態に見えた。

 呼吸を整える彼に向かって、今度は微かに震え出した結架が声を上げた。

「あなたは……」

「え?」

 男性の視線がミレイチェを越えた。そしてペーソン夫妻を越え、フェゼリーゴ、ミケルツォ、カルミレッリ、マルガリータ、鞍木を越えて──。

 彼は結架を見た。

「ああ……」

 彼の大きな瞳が、十字星でも秘めているように輝いている。その目が結架をとらえた瞬間、ゆっくりと、彼は微笑んだ。凛々しくも美しい。彫像が動きだしたかのような神秘的な空気がかおる。人を恍惚こうこつとさせ、酔わせてしまう、馥郁ふくいくたる雰囲気だ。

「ようやく、お逢いできましたね」

 なめらかな日本語が、彼の喉から妙なる旋律を奏でるように流れ出た。鞍木が怪訝そうに結架を見たが、彼女はまったく気がつかない。

「貴方が──オー・ボワの貴公子──?」

 問いではなく確認の声を結架は発した。すると、彼の微笑にずかしげな色が浮かぶ。

たしかに僕をそう呼んでくださる方もおいでのようですが……僕は、そのような雅な人間ではありませんよ」

 そんなことはない。

 迷いのない、なめらかな身のこなしや優美な仕草、穏やかで流麗とした声の響きなどは上品そのもので、幼いころから訓練を受けてきた者のそれだ。この印象をって見る限り、貴公子という形容はずばりそれを言いいている。

 結架は頬に血が昇るのを感じて、途端とたんに激しい羞恥心に襲われた。

 ──このひとを前にして、平然としているなんて。

 不可解に思い、結架は周囲に視線をめぐらせた。さすがに女性であるマルガリータやレーシェンは彼に見蕩みとれて、完璧ともいえる容姿に感心している。そして、男性陣は──矢張り見蕩れている──結架は称賛をこめた眼差まなざしをしている彼らを見て、さらに頬を染めた。初めて逢ったときのことを思い出したのである。あのときは、まるで言葉を知らない者のような態度をとってしまった。

 彼の唇から、再度、日本語がすべり出た。

「願わくば、ご尊名をお聞かせください」

 結架は言いよどんだ。

 ようやく逢えた、というのは、熱望していた初対面の興奮からの言葉なのだろうか。

 彼の声を聞けば確信できると思っていたが、結架は自信がなくなった。

「私は……折橋おりはし 結架ゆいかと申します……」

 彼はその名を聞いても、微塵も揺らがなかった。

「結架さんですね。僕は、榊原さかきばら 集一しゅういちです」

 ──結架さん──。

 心に銀の幕を降ろされたようだ。

 結架は茫然自失した。

「──集一さん……」

 惚けている結架に微笑みかけ、目礼すると、彼は口を挟めないでいるほかの仲間たちに向けて、今度は英語で名乗った。

「皆さん、お待たせしてしまい、申し訳ないことをいたしました。オーボエ奏者の集一・榊原です。どうぞ、宜しく」

 マルガリータが最初に我に返った。

「あ、あら。時間にはちゃんと間に合っているもの。謝る必要なんてないわよ。ねえ、カルミレッリ」

「え? あ、ええ、そうですよ。シューイチ。気になさらないで、いいですよ!」

「ありがとうございます」

 集一は、華やかな微笑みを室内に広げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る