第4場 邂逅(3)

「仕方ありませんわ。開音節を長く延ばすのはイタリア語の特徴ですもの。それこそがイタリア語の魅力であると、私はそう思っています。まるで歌うようだと」

 カルミレッリの表情にくすぶっていた卑屈さが、瞬時に消えた。顔を上げて、凝然と結架を見やる。そして、首を傾けた結架にイタリア語で何事かを囁いた。すると結架は微笑んで、イタリア語で彼に応えた。

「うわぁ、ねえ、聞いた? イタリア語だ!」

「聞けば分かるよ、カルミレッリ」

 興奮したカルミレッリに腕を掴まれ、振り回されて、ミレイチェがほろ苦い笑みで言う。

「その若さの日本人で三ヶ国語が自由なんて、珍しいわね。あ、それとも四ヶ国語かしら。フランス語は?」

「残念ながらフランス語は不得手ですわ。留学中は師にいつも叱咤されていました。スペイン語もルーマニア語も、ポルトガル語も、その他も」

「それでも凄いものだ。余程、勉強なさったのでしょうな」

 何故か、結架は寂しげな表情をした。マルガリータがそのわけを訊こうとしたとき。

 人の声と跫音がし、振り向くと扉が開いた。その向こうには数人の男女が立っている。

「おやおや、一番乗りだと思ったんだが、先を越されてしまったな」

 扉を開けたらしい男性が、ノブに手を置いたまま、つまらなそうに呟いた。まだ若く、剽軽ひょうきんそうな印象を受ける。彼の隣には冷然として理知的な美女が対照的に立っている。彼女は、その容貌に似合いすぎる声色で彼の態度をたしなめた。

「アンソニー、失礼よ。まずは ご挨拶しなければ」

「何だ、レーシェン。君こそ無礼な真似は止したらどうなんだ」

「わたしがいつ、無礼な真似をしたというの」

「してるじゃないか。先着の皆さんを無視している」

「それは貴方の所為せいでしょう!」

 扉の前でぎりぎりといがみ合う二人を、結架と鞍木、そしてカルミレッリは唖然と見つめた。あとの者たちは呆れ半分、面白半分という面相である。

 睨み合っている二人の後ろから、穏やかで深みのある声がなだめに入った。

「取り敢えず室内なかに入ってもらえませんか、二人とも。後ろがつかえておりますから」

 慌てたように従う二人を見て、結架は安堵した。宥めた男性の声は低いがあたたかく、逆上している人間の理性を少なくとも一時的に取り戻すことは出来そうだった。しかし、例外的な人物も居るようで、その声に頬を強張らせたマルガリータを、結架は一瞬、不思議そうに見つめた。

 マルガリータの顔面筋肉に緊張を与えた奇特な人物は、結架と鞍木、そしてカルミレッリの前に進むと、気難しそうな顔に薄い笑みを湛えた。

「初めてお目にかかります。私はフェゼリーゴ・ゴンザーガ。今回コンサート・マスターという大役を仰せつかりました。どうぞ、宜しくお願い致します」

 彼は長身を折り、慇懃いんぎんに一礼した。何やら、高貴な雰囲気を持つ男性だ。そんなことを感じながら、結架とカルミレッリ、そして鞍木も名乗る。マルガリータが口を開きかけたとき、先程の男性が待つことに耐えられなくなったようで、フェゼリーゴの頭ひとつ分、低い背を、思いきり伸ばした格好で進み出た。

「はじめまして。アンソニー・ペーソンです」

 無邪気に頭を下げると、彼は隣に立つ女性──つい先程、口論をしていた相手に視線を向けた。女性は一歩前に出て心もち微笑んだ。思ったより、ずっと愛想のある笑みだ。

「レーシェン・ペーソンですわ。お会い出来て光栄です」

「ペーソン?」

 聞き返したカルミレッリに、レーシェンはうなずく。

この人アンソニーは、わたしの夫ですの」

 彼女は機嫌良くアンソニーに親指を向けたが、妻に指さされた夫のほうは不愉快そうにその手を払いのけた。

「そうでしたの。それで……」

 言いよどんだ結架の途切れた言葉の続きを察して、レーシェンは底の知れない笑顔を見せる。

「ええ、そう。喧嘩も夫婦の営みのうち──ということですわ」

 悪戯わるふざけの成功を祝うように片目をつぶったレーシェンを見て、結架はつい、胸を撫で下ろした。どうやら想像に外れて彼女は外見の醸す堅苦しさほど生真面目ではなく、意外にもユーモアの精神を持ち合わせているらしい。それに、マルガリータを見て親しげに話しかけたところを見ると、彼女同様、母性や寛容さも持っているのだろう。

 それからロレンツェッティ、マインツ、メイナール、アッカルド、ミケルツォ、ストックマイヤーと、それぞれ自己紹介を済ませて互いの名前を確認し合っていると、不意にミレイチェが、

「あれ」

 と、呟いた。

 さまざまな国籍と別々の楽団に在籍している男女たちをどのような経緯いきさつで集めたのだろうと思っていた結架は、その声に我に返って顔を上げた。

「どうなさいましたの?」

「いえ、どうも到着が遅れているようですね。肝心のオーボエ奏者が……」

 結架のそばに立っていたマルガリータが、あたりを見回し、それから扉のほうをまじまじと眺めた。髪の中に手を差し込み、首の後ろを押さえる。

「あら、本当。オー・ボワの貴公子が居ないわね」

「オー・ボワの貴公子?」

 襟元から手を出して、マルガリータが結架に説明する。

 ヴィチェンツァでの独奏管楽器競演会コンクールにおいては最高位の賞を獲得し、今度の演奏会の契機を生んだ、日本人。彼が初めて競演会に出場したのは一四歳のときで、そのとき彼は、初出場にして初優勝という栄冠を手にした。そして、当時、審査員の一人を務めていた、著名なフランス系アメリカ人指揮者がちらりと口にした一言が、以降、彼の称号となった。

「それが〝オー・ボワの貴公子〟というわけよ」

 どうも俗っぽいな、と鞍木は思ったが、結架をちらりと見て口に出すのをめた。

 すると、そのとき。

 ドアノブの動く音、扉の開く音がすると、涼やかな男性の声が飛びこんで、皆の耳に快く響いた。

「申し訳ない。遅れてしまったようですね」

 静かで、懐かしい声──。

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