第4場 邂逅(2)

「それは頼もしいですわ、ミスター・カッラッチ」

 嬋娟せんけんたる笑顔に子どもっぽさが含まれていることに、彼は驚きを禁じえない。

「おや……。私をご存知でしたか。残念だな」

「あら、残念なのですか? 何故ですの?」

 小首を傾げた結架の不思議そうな表情が見られたのが、彼には嬉しかったようだ。人の悪い表情かおをつくる。

「貴女のように魅力的な女性の前では、出来れば謎の男でいたかったのですよ」

 謎の男──。

 その言葉に、結架はどきりとする。

 サンゼーノ・マッジョーレ聖堂の前に、彫像のように美しく佇んでいた、高貴な雰囲気の青年。彼はまさしく、謎めいた存在だった。

「だが、まあ、仕方ありませんな。仕事ではそうもいきますまい。しかし……そう……私はミレイチェ・カッラッチという名前を使っています。ミレイチェと呼んでくださって結構ですよ」

 ミレイチェは意味ありげな言い方をした。正体を明かして結架の興味を削ぐことに、よほど抵抗があるらしい。

 結架は声もなく笑った。

 マルガリータが眉を上げて、呆れた、という表情をする。だが彼はそんな彼女の視線に気づかないふりをした。

「それにしても、お会いできて本当に嬉しいですよ。貴女が日本国外でのコンサートに参加してくださるなんて滅多に無いことでしょうからね……。どうやら、日本でも殆ど演奏なさらないようですが、矢張りそれは貴女のお──」

 四人の会話に入ることなく、静かに控えていた鞍木が、ミレイチェに呼びかけた。

「ミスター・カッラッチ」

 遮られて、ミレイチェはやっと気づいた。自省という影を背負った苦笑がミレイチェの顔を覆う。

「ああ……そうでしたね。失礼しました、ミスター・クラキ。ひと月ぶりですね」

 鞍木が以前、結架とは直接の関係がない仕事によって今回コンサートを開くためにさまざまな雑務を受けもっている代理店の演奏者担当責任者ミレイチェと知己になったということは、結架も事前に聞き知っていた。だが、マルガリータとカルミレッリは知らない筈だ。そのことに思い至って結架は慌てて二人に鞍木を紹介しようとした。しかし、彼女が口を開きかけたところでミレイチェが先んじた。

「彼はミス・オリハシのマネージャーを務めていらっしゃる、コースケ・クラキという方です」

「どうも、はじめまして。どうぞ宜しく」

 一礼する鞍木に、マルガリータが人懐こい笑顔を向けた。

「ええ、勿論。遠い異国ですもの、何か困ったことがあったら、遠慮なさらないでね。力になるわ」

 マルガリータが母性のような雰囲気を浮かばせて結架と鞍木に話しかけている間、カルミレッリがミレイチェの腕に触れ、彼の注意を引いた。

「ミレイチェ。このかたを、よく知ってるの?」

 互いの母語で会話する。

「ああ、七年前にも同じ仕事を受けもってね。ただ、そのときは、ミス・オリハシはられなかったが」

「ふうん……」

 何事かを考えながら、カルミレッリは結架を眺める。容姿は凛々しい印象でありながら、人見知りの激しい、内気そうな彼の動作は、まるで、大人たちの中で戸惑う小学生のようだ。もっとも、最近では、小学生であっても大人に混じって芸術的職業につくことが多いが。それに、考えてみれば昔から〝神童〟と呼ばれる存在は国境を越えていたのだ。適性というのも勿論あるにはあるだろうが、カルミレッリがやっていけない訳ではない。

「ねえ、先刻さっき、彼女を見て驚いていたでしょう」

 カルミレッリの囁きに、ミレイチェの目が平素よりも二割ほど大きくなった。

「……そんなに露骨だったかね」

「少なくともマルガリータは気づいてないと思うよ。それから、彼女本人も。彼は知らない」

 ミレイチェが当惑の色に染まったのを、カルミレッリは見逃さなかった。

「どうして驚いてたの? なんだか、幻でも見ているみたいだったけど」

「……昔、結婚を夢見た女性にね、似ているんだよ、顔立ちが。頭髪かみの色とかは違うんだが──背格好や目鼻立ちは──そっくりだ」

「日本人女性?」

「ああ」

 切ない懐旧にミレイチェは心を飛ばした。もはや取り戻すことの出来ない過去は、それが甘ければ甘いほど、手に入れ損ねていれば尚更に、人の心を束縛する。同格の現在を手に入れない限りは。

「それで、そのひとは? 結婚しなかったの」

 夢から引き戻されたミレイチェは眩しそうに瞬きをし、カルミレッリを見下ろして、悲嘆をこらえるように言った。

「亡くなったよ。日本に帰国した後でね」

「ごめんなさい」

「いや。彼女にしてみれば、私は関係のない人間だからね。葬式にも行っていないし」

「ごめんなさい……!」

 ミレイチェは軽く笑い声をあげた。すこし擦れた、そして短い、自嘲を含む優しい小さな声。

「気にしなくていい。それより、君はどうなんだ? 初対面の女性には、いつも、あんな感じなのかね」

 すると、カルミレッリは赤面する。

「マルガリータとは年齢としが離れすぎていて、ずかしがり屋の君でも平気か」

「だって……マルガリータは最初から、ぼくを子ども扱いじゃないか」

 忍び笑いを漏らすミレイチェを、カルミレッリは軽く睨んだ。

「あら、何を楽しそうに話してるの、二人とも?」

 結架がフランス留学を経験していると聞いて嬉しそうに当時の話を聞いていたフランス国民、マルガリータが振り返ると、カルミレッリがぷいとそっぽを向いた。その様子に結架が反応する。

「どうかなさいまして?」

 カルミレッリが無言なので、結架はますます心配する。

「ご気分が優れないのですか、ミスター・マジーナ?」

 その言葉に、カルミレッリは顔を上げ、ぶんぶんと勢いよく首を横に振った。彼を見て、ミレイチェが頬を緩める。

「ご心配は無用ですよ、ユイカ。カルミレッリは気分の高揚に動揺しているだけですから。緊張しているのでしょう。なにしろ、目の前に貴女のような──」

「ちょっと! ミレイチェっ!」

 初めて大声を出したカルミレッリは、そこで我に返って硬直した。みるみる彼の頬に赤みがさし、固まっていた腕が素早く動いて口を覆う。重たい戸惑いの空気が流れること、数秒。マルガリータの呆れ声が居心地の悪い沈黙を破った。

「なあに、カルミレッリ。あなた、大きな声が出せるんじゃない。いつもそのくらいの声で話してくれれば、聞き取りやすいのに。英語に自信がないのかと思ったわ」

 顔の下半分を覆い隠していたカルミレッリが口から手を離して俯いた。恥じ入って、彼は低く呟く。

「英語に自信がないのは本当だけど」

「でも、単語や言い回しに間違いはないわよ。わたしも苦労したけどね、英語には」

「だけど、母音を伸ばしちゃう」

 悄気しょげかえるカルミレッリを、結架が慰めた。

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