第4場 邂逅(1)

 ミラーノをでた結架と鞍木は、コンサートが開かれる街、トリーノへと向かった。ロンバルディーアのミラーノから、ピエモンテのトリーノまでは西へ一〇〇キロ以上、距離がある。そして、公演場所はトリーノ王立劇場テアートロ・レージョ・ディ・トリーノだった。

 この劇場は王立劇場の名に恥じない最新の技術や設備を誇り、質の高いオペラが上演されることでも有名である。一九三六年に、どこの国でも必ず見られる人間の浅ましさからくる失火によって焼失されてしまったのだが、一九七三年にはオペラの再開上演を果たした。そのオペラこそがヴェルディの『シチリアの夕べの祈り』である。かの有名なギリシアの歌姫マリーア・カラスが初演出した作品としても話題に上り、絶賛されたそれは、王立劇場公演再開初の上演作品に相応しいものであったという。

 今回、その、由緒ある歌劇場でバロック・コンサートをることになったのは、中世以降、近隣都市であるパードヴァ、ヴェローナ両都市の支配を受けたヴィチェンツァのオリンピコ劇場で行われた音楽祭コンクール独奏管楽器の部で最優秀賞に輝いた日本人演奏家の演奏楽器がオーボエで──そして、今年でちょうどトマーゾ・ジョヴァンニ・アルビノーニの没後二五〇周年であったから──なのである。

 つまり、その、日本人オーボエ奏者のために特別な受賞記念コンサートを開こうというのが今回の趣旨であり、『特別』な要因として、アルビノーニの死後年数を採用したらしい。

 オーボエときてアルビノーニを代表作曲家というふうに出すのには、実は、それなりの理由がある。

 一六七一年、中世期イタリアの絵画的都市で、ラグーナに浮かぶ水上の都ヴェネツィアに生まれたアマチュア音楽家。自称芸術愛好家ディレッタントのアルビノーニは、オーボエという楽器が殊の外お気に入りだったようで、彼の書いた協奏曲コンチェルト集の中の作品七と作品九には、それぞれ四曲ずつのオーボエ協奏曲が残されており、それは他の楽器と比べて可成り割合が高いと言える。その上、オーボエ以外の管楽器を独奏楽器として起用した協奏曲は一曲も存在しないときているので、彼のオーボエへの愛情も相当なものだったに違いない。

 また、それらのことから、当時のヴェネツィアには素晴らしいオーボエ奏者がたと思われている。そこでその推測を事実と仮定した上で、例の日本人オーボエ奏者をかの名手に擬え、当時を偲ぼうという、なかなか興味深い主題テーマを掲げたらしい。

 ただ、物事というものは巧くいかないもので、本来ならアルビノーニの生地での公演が望ましかったのだが、ヴェネツィアのフェニーチェ劇場が四年前の一月に二度目の火災に遭って使用不可能になり現在改築中であることと、そのほかにも細々とした障害があって、結局、叶わなかった。

 その代わりというべきか、またもや『特別』に固執したのだろうか。共演の演奏者は全員わざわざ各国の楽団から〝借り出し〟てくるということになった。どうもそれは『特別』というよりも『異例』とか『奇抜』と言い表されるべきではないかと思われるが。

 それはともかく、結架もチェンバロ奏者として来て欲しいと懇請されたのだ。アルビノーニの優美な作風に陶酔した彼女は、この話に飛びついた。そして、反対する家族を説き分け、説き伏せ、やっとのことで契約を結んだ。

 だが、結架は一つの楽団に籍を置いているわけではなく、日本国外で演奏した経験も数えるほどしかない。だから、契約を無事に結んで喜んだのち、そのように実績に乏しい自分が楽団に加わろうなどというのは分不相応であるばかりか暴挙ではないだろうかと、不安になった。

 楽譜を置いて行ったとしても支障がないほどに暗譜してあるものの、心は落ちつかなかった。

「心配いらないよ。たしかに君が発表してきたのは独奏や四重奏といった小規模編成での演奏録音ばかりだけどね。あれらを聴いた上で、主催団体も代理店も、君に出演依頼を決めたわけだし。調整時間もたっぷりくれたし」

 鞍木が暢気のんきな口調で宥めたが、気は安らがなかった。

 しかし、いずれにしても、今さら契約を取り消すことはできない。結架は覚悟を決め、受け持ちパート譜だけでなく総譜のすみずみまで読みこんで練習をして頭と身体に曲を叩きこみ、緊張感にみなぎって鞍木とイタリアに旅立った。

 ところが、ヴェローナに着いてみると、鞍木が意味ありげに笑って、

王立劇場テアートロ・レージョと、ヴェローナの円形競技場アレーナとを聞き間違えた」と、言ったのだ。

 彼は指定された日時まで間違えたと言い、結果イタリアには三日も早く着いてしまっていた。数字の誤認ならよくあることなのだろうが、トリーノのテアートロ・レージョと、ヴェローナのアレーナでは、聞き間違えるには発音が遠すぎるだろうに。まったく鞍木は人を食っている。

 七月一〇日の午後六時、結架は王立劇場の出演者用休憩室に着いた。扉を軽くノックして開けると、既に三人の共演者が椅子に腰掛けて談笑していた。三人は結架に気づくと友好的な微笑を浮かべ、立ち上がった。最初に声を発したのは、緩やかなウェーブのかかった艶めく蜂蜜色の長い髪を黒い夏用礼服サマースーツの背中に垂らした女性だった。黒の礼服というとまるで喪服のようだが、上着の下に着ているブラウスは見るも鮮やかな瑞々しい野生種桜桃ワイルド・チェリーの色で、彼女の古典的な顔立ちを近代的に見せている。

 彼女が使ったのは、綺麗な発音の純正英語クイーンズ・イングリッシュだった。

「はじめまして。わたしの名は、マルグリット・ド・フランソワーズというの。でもどうか、マルガリータと呼んで頂戴」

 差し出された、彼女の力強くて温かい手を握りながら、結架も名乗った。

「私は、結架・折橋ですわ。どうぞ、よしなに」

「ユイカね」

 頷いたマルガリータの後ろから、整った顔の少年が歩み出る。ひと目でイタリア人だと感じさせる魅惑的な瞳と鼻筋の、凛とした雰囲気を醸し出す面差しだ。しかし、彼の声質は、顔貌ほど凜然としてはいなかった。

「フィリッポ・カルミレッリ・マジーナです」

 もじもじと弱く小さな声で姓名を告げるが早いか、彼は結架が握手を求めようとする前に素早く身をかわして、マルガリータの背後に隠れるように退がった。すると、マルガリータの左隣から体格の良い大柄な男性が進み出た。

「貴女があの、ユイカ・オリハシですか。私は今回の演奏会企画を滞りなく進めるために派遣された者です」

 その一言により、彼が共演者ではないことが解る。

 悪戯っぽく微笑わらう彼の握手に応え、結架は両眼に侮りがたい輝きを浮かべた。

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