第3場 神を射落とさんとする者

 死に向かう者たちの煩悶に呻く声を聞きながら、男は戦々恐々として亡骸の放つ腐臭を嘆いていた。その香りに、男は恍惚とするように目を細める。

 腐敗臭に澱む空気を胸いっぱいに吸いこんで、男の肺には黴が生えそうだった。だがしかし、男にはそれが心地好い。

 連なるむくろ

 累々たる死屍なげき

 男の背後にも目前にも、死した肉塊が山と積まれている。

 おぞましい光景は、男の視界に隅々まで広がる。それは男の視た世界なのか、それとも望む世界か。どちらにしろ、この世界に神は居ない。ここは破壊と冒涜の配する世界だ。その中で、男は一人、佇む。誰にも顧みられない存在にあることを噛みしめながら。

 死に絶えた者たちの発する悲鳴が苦痛に凝固した空気を貫く。恐怖と絶望に彩られた甘美な音響に、男は身を委ねた。快感、悦楽。その境地に男は立っていた。他人よりも、自らの心の中を覗くのが、男の愉しみなのだ。覗きこんだ中に〝宝の女〟がいることを、男はもう知っている。

 男は屍骸しがいの山から目を逸らした。これらも充分に美しいが、それと比較を許さないほど優雅にして婉然とした──姚冶ようやで妙麗なものがある。そしてそれは、この男が唯一愛したものだ。男が〝宝の女〟と呼ぶそれは、キプロス王ピュグマリオンの妻、ガラテイアの如く、完璧な女性である。

 ガラテイア。彼女は美と愛の女神アフロディーテの恩恵により石像から人身へと転じ、ピュグマリオンの王妃となった女性だ。

 完全体の女を望んだピュグマリオン。

 ピュグマリオンに創造された完璧な女。

 非の打ち所のない恋人に、彼は満足しきっていたのだろうか。本当に、何も不満はなかったのか。美、知性、慈愛、寛容、高潔、従順……数えあげたら際限きりがない。それらを見事に備えていたとしたら。

 しかし男はピュグマリオンの理想を鼻で飛ばす。そして、女神ヴィーナス神罰いかりをも恐れぬ私見を持った。ガラテイアなど、所詮は石から生まれた人形。人間の模造にすぎない。女になど成り得ない。それは最初はなから、人間ではない。

 だが、男の心に棲む女は〝完璧な人間の女〟である。〝宝の女〟は世界に唯一人ただひとりであり、〝理想の女〟では決してない。それは空想世界から脱却することが不可能な存在であるのだ。だから、何とも比較することもないし、幻滅することもない。よって男は誰にも干渉されることなく〝宝の女〟と戯れられる。

 ガラテイアの上にある女と。

〝宝の女〟は慈愛に満ちた、その両の瞳で罪深い男を見る。優しく気遣う、あたたかな視線。その唇から微笑が消えることはない。

 男は確実に愛されていた。

 愛──愛とは何だ。

 与える側にだけ存在するモノなのか?

 それとも与えられる側に存在するのだろうか。

 愛する者は、そして愛される者は、愛をどうやって自覚する? どうして、自分の持つそれが〝愛〟なのだと判る? 何故──これが〝愛〟なのだと感じられるのだ。

 男には、愛がよく解らない。男は恐らく、愛を知らない。これが〝愛〟というものなのだよ、と教えられたことが、ただの一度もないからだ。

 ──だが、断言できる。これこそが愛だ。この、燃える想いこそが、愛だ。邪魔の手を決して赦さない、この激情こそ、愛の名に相応しい。

 男の心は〝愛〟という言葉の虜になった。自分を慕う女性を、まるで木霊エコーの気持ちを拒絶した自己陶酔症者ナルキッソスのように冷たくあしらっていた──一人を除いた他人に対し、無関心であるように見えていた、そんな男が、だ。

 しかし、そんな男でも、〝宝の女〟には愛されている。彼女だけは、決して、男の愛を否定しない。拒否しない。男は何故か、そう信じている。

 無邪気な子どものように。

 疑うことを知らぬ、安穏とした生を受けて微睡んでいる赤ん坊のように。

 そして、虚像を知らない胎児のように。子宮に守られ、羊水に浸かって、〝宝の女〟に守護された胎児は、何処へ行き着くのか。混沌としたこの世には、生まれ出ることを放棄させられた子どもが多すぎる。〝宝の女〟が、そんな子どもたちを守護するのは、至極当然なことである。そして──男には守られる権利がある。

〝宝の女〟に愛され、守られて、男は永遠に無害な胎児のまま……。

 そんな夢想を抱いて、男は骸のなかで命を繋ぐ。

 終わることのない、仮想現実の世界。

 男の空想には破綻が目立つ。そしてそれは既に、壊滅状態にあった。

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