第2場 汝の苦しみを神は識る

 陽の落ちた中庭には あちこちに灯りが点され、夕暮れ時のような明るさだった。その光を頬に感じて、結架は大きく深呼吸した。ここには、自分を束縛するものは何もない。結架は、鞍木が『連いて行こうか』と言わなかったことに感謝した。

 サザンカやエニシダ、糸杉などが茂る庭園に、結架は居た。人気のない場所の空気は、結架の心を軽くさせる。鞍木には悪いと思ったが、いまは独りを感じたかった。

 ホテルの正面には名のとおりの聖母像が安置してあったが、ここにはローマ神話に登場する神々や女神の白い像が、灯火の光を浴びて暖かい蜜柑色を帯びている。撫でたくなるほど滑らかな頬や首筋を眺めた。

 大理石の顔を、食い入るように見つめる。そのどれもが違う顔なのに、結架の目では、すべてあの男性の顔に見えてしまう。つくづく、鞍木が散策の同行をさりげなく辞退してくれてよかった。ちらりと苦笑してから、結架はまた大理石像を注視みつめた。

 サンゼーノ・マッジョーレ聖堂の入り口に佇んでいた、あの美しい青年の優しげな微笑。冒しがたい美貌。長い間、結架が求めつづけていた、救世主サルヴァトーレたる存在。それなのに。

 ──何の言葉も交わさないままに彼は立ち去ってしまった。

 結架はイタリアに来た理由を完全に忘れ、物思いにふける。

 おそらくは太陽の神アポローンを模した彫像の前で、結架は深い失望の嘆息を、空中にそっと放った。魅惑的な表情のかもす、雲の縄じみた優しい枷から逃れられずに、結架は切なげに像の瞳を見返した。冷たい石の瞳は、結架の視線などには気づかずに、はるか彼方へ向いている。魂が宿っていないからか、それともそれは視線の先……対象物に放出されてしまっているのか。結架は、その瞳が何を見つめているのか気になった。

 恋人か。友か。神か、人間か。或いは邪悪なる存在か。光か、影か、暗黒やみか。物体か、精神か──世界か。

 太陽の視線は屈折を繰り返して様々なものを眺めやる。そして、光の慈悲で世界を慰めるのだ。ならば彼の眺めているのは闇であるのが正しいか。

 照らせば照らすほど、陰影かげと暗闇が生まれてしまう。けれど、それらが、生き物を生き物たらしめる要因も生んでくれる。眠りという安息を。

 彫像は、己自身の表情を決して変えられはしない。だが、太陽の光によって影を作られた顔には、一瞬前とは全く異なった表情を持ち得るのである。それはまるで、地上の人間に改竄かいざんされてしまった愛のようだった。神の介入の手なしでは、地上において、完成された愛は復活を成し得ない。

 結架は、神の干渉にも左右されないような、地上では絶対に有り得ないはずの、完全体の愛が欲しかった。

 決して得ることのない、天上の愛。ダンテが、ペトラルカが、ボッカッチョが、おのおのの心の深淵で強く求め、おそらくは生涯、夢見たものだ。〝恵みを与える女性ベアトリーチェ〟、〝月桂樹の女性ラウラ〟、〝小さな炎の女性フィアンメッタ〟。結ばれることを望まず、それでも彼女たちに焦がれた。

 結架が切に願っているのは、愛の神、キューピッドから下賜される不変の愛。どうしても手にしたくて、ときには暴挙に出る者もいるほどの蠱惑的こわくてきな宝。金の鍵を掛けた宝箱こころにそれをしまえるのは、偶然と運命の女神から祝福を受けた者たちだけである。

 結架は、偶然と運命の女神から愛の神に依頼される、二本の黄金の矢でもたらされる愛が欲しかったのだ。絶対的で、全生命をかけた。そのことに彼女は初めて気づいて、自分で自分に毒づいた。

 ──なんて愚かしいの。

 自分に、そんな資格があるだろうか。永遠の愛を手に入れるに相応ふさわしい資格が?

 ──神にとって私は、指に乗っていても気がつかないほど、ちっぽけな存在だわ。

 塵ひとつに手間をかけるほど、神とて寛大で暇ではない。し、そうでなかったとしたら、この世は不公平に満ちてしまう。惨苦も幸福も、すべての人は恐ろしく公平に贈られているのだ。そして愛もまた、例外ではない。だから──結架には望みが薄い。

 宝を得ようと努力の限りを尽くしても、一生得ることのないまま生涯を終える者だっている。そして幸運にも得られたとしても、宝箱には仕舞わず、腕に抱いて眠る者だっているだろう。

 ──宝箱に世界唯一の宝を仕舞うのは、王者だけ──。

 結架は、名も知らぬ青年の面影を抱いて、静かに涙した。

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