第1場 序曲——邂逅 (11)

 しかし、同じくらい強く、感じた。

 ——決して、あの天使であってはならない!

 瞳には切望の潤みが、額には絶望の灰色が浮かぶ。

 すると、この世に二人といないだろう美青年は、不意に結架に黙礼した。それから緩やかな所作で彼女から離れていった。

 彼を引き留めることすら出来ず、結架は路上で凍りついている。青年が路地裏に消えると、彼女はそれまで地中にめりこんでいた足の根が切れたように、ぐらりと揺れて、膝を折った。

 座りこむ結架の姿を見つけて、鞍木が飛んできた。

「結架くん!」

 手を貸そうと寄ってきたイタリアの善良な人々を押しのけ、鞍木は結架が立ち上がるのを助けようと手をさしのべた。その腕を、結架が驚くべき力で掴んだ。

「結架くん? どうしたんだ。ちゃんと説明してくれ」

 鞍木の言葉を聞いて、結架は身を震わせた。

 ありえない存在。天使。幻覚だろうか。

 あまりに強く、長く、逢いたいと願っていたために見えた、幻か。

「わからない……わたしにも、わからないの……」

「でも、もしかしてしたんじゃ」

「お願い。誰にも何も言わないで。お願い……」

 必死で懇願する結架がその全身から発している切迫感と、澄んだ瞳に宿る涙の切実さに後退たじろいで、仕方なく鞍木は何度も頷いて安心させてやった。

 こんなところで、もし発作を起こされでもしたら、どう対処すれば良いのか、鞍木には見当もつかない。なにしろ彼は異国に来ているのだ。医療制度も何も、まったく違う国に。ここでは、幼いころに音楽家の父親からイタリア語を学んだ、結架のほうが対応できる。これでは立場が逆だが。

 取り敢えず、鞍木は結架を車まで連れて行った。本人が大丈夫だと言い張るので、どこかで休むことなくホテルに行くことにする。だが、彼は予約していたホテル・聖母像マドンニーナへ到着すると、すぐに彼女を休ませて、夕食前に二時間ほど眠らせることに決めた。

 ミラーノまで五時間ほど、結架は、ほぼずっと目を閉じていた。万が一のことがないよう細心の注意を払って運転していた鞍木は、彼女が車中で果たしてどのくらい眠っていたかは知らないが、途中、遅めの昼食を摂ろうとブレッシャで停まったときは目を覚ましていた。

 本当なら、ヴェローナのあとミラーノに直行するのではなく、パードヴァからフェッラーラを経てボローニャまで行き、モーデナ、パルマ、時間さえあればクレモーナにも寄ってから、のんびりとミラーノへ——と、思っていた。しかし、どうも結架が疲れもあって気乗りしない様子でいるので——それもサンフランチェスコ・アル・コルソ聖堂の後からだと鞍木は思っている——早々にミラーノに行って、彼女さえその気になったら、レオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館で彼が考案した独創的な機械の模型や、そこから四〇〇メートルばかり西に建つアンブロジアーナ絵画館でラッファエッロの『アテネの学堂』の原寸下絵カルトンに、ダ・ヴィンチの『ある音楽家の肖像』でも見ていたほうが良いのだろうと思ったのである。

 そこで、急遽ボローニャのホテルの予約を解除し、予定していたよりも二日早くミラーノに到着すると、ホテル・マドンニーナに電話しておかなくてはならなかった。おかげでキャンセル料などの出費が増えたが、しかたがない。

「英語が通じるから、安心して泊まれるな」

 ホテル・マドンニーナは五ツ星とまではいかないものの、結架の、一種 厭世的ペシミスティック傾向の、極端に目立つことを嫌う自虐的な——つまり、自分が世界の一部であることから世界まで厭になる——性格と、鞍木の結架に対する上流志向を共生させるのに必要な条件が揃っていた。

 赤煉瓦造りで五階建ての瀟洒な建物の外観を結架は殆ど見ることなく、ロビーに置かれた金褐色のサテンが張られた長椅子に沈みこむように座った。疲労が彼女の全身から平素の軽やかさを奪い、その大きな瞳を、長い睫毛が半分覆っていた。

 その様子を見た鞍木は、これ以上の外出が無理なことを悟った。内心では少し落胆がっかりしながらも、結架の体調を気遣う。

「結架くん、大丈夫か? ひどく疲れているようだが」

 鞍木の問いかけに結架は視点を向けることなく、上の空で答えた。

「ええ……ええ……。ただ……眠くて……たまらないだけ……だもの……」

 意識のうち、大半はマブ女王の統べる世界に行ってしまっているようだと判断して、鞍木は荷物を持っている従業員ベル・ボーイに向きなおり、チェックインすると告げた。

 鞍木の後ろ姿を見つつ、結架は、かろうじて意識を現実世界に留めるため、肘掛けの外側に彫られた曲線を指でなぞった。細く優雅な螺旋と鋭い蔓草の葉が肘掛けの輪郭に抵抗しつつも甘え、寄り添いながらも離れようとし、好き勝手にうねっているようでいて、其の実、虜囚の身から逃れられずにいる。結架はぼんやりと、そんな取り留めもないことを思った。

「結架くん。さあ、部屋へ行こう」

 瞼を半分閉じたまま、頭上から降ってきた鞍木の声に結架は顔を上げた。いつの間にか後ろにベルマンを控えさせた鞍木が少し心配そうに眉を曲げ、彼女が立ち上がるのを助けるため、右手を差しだして立っている。

 小さいが、確固たる声で結架は礼を言った。そして腕を鞍木に預けると、ゆっくりと腰を上げた。殆ど視界が瞼で塞がれているというのに結架の背筋は伸びている。日頃からの訓練が、こんなにも身に染みついているのだ。

 まずは、結架の部屋に案内された。扉の向こうに広がる室内には、半世紀以上から三世紀以内の年月を経た家具調度の品々が置かれ、窓辺に配置されたテーブルの上には、カンパニュラを生けた花瓶が控えめに、しかし、すっくと立っている。

 寝室に面した大きな扉を広く開けてから、鞍木が言った。

「それじゃあ、おれの部屋は隣だから。何かあったら、いつでもどうぞ」

「ありがとう」

 無意識に返事をしてから、結架は寝室に入って行った。

 結架と鞍木の部屋は別々だが、珍しいことに、実は寝室が扉一枚隔てて繋がっている。元々はひとつの部屋だったのを、二〇年ほど前に壁を造って半分に分けたのだそうだ。つまり部屋の広さは半分に減った訳なのだが、特別賓客用の一室が二つの客室に増えて、一泊料金は下がったものの使用頻度が上がったので、改修工事で費った金額分は一年で取り戻せたのだという。ただ、その工事の折なにかの手違いからか、それとも清掃作業の時間短縮と簡略化を図れるといった理由があったためか、二室を隔てる壁に扉が設けられたらしい。いうまでもなく、普段は鍵が掛けられて開かないようにしてあるということだが、この二部屋の話を聞いた鞍木は結架に相談のうえ、非常時に備えて鍵は開けておいてくれるように頼んだのだった。運よく今晩も翌日も揃って空室であったので、滞在中、この部屋を移らなくとも済む。しかし、鞍木は礼節を弁えていたので、いったん廊下に出てから自分の部屋へ行った。

 荷物を解いて寝室に行き、愛用の枕をベッドの幅中央に設置する。これでなくては良質な深い睡眠を得られないのだと言って譲らない彼に、友人の一人は言ったものだ。

「枕の高さや硬さがどうこうと言いはる枕信仰の信者か。本当は、嗅ぎ慣れた自分の体臭が消えて不安になるだけのことさ。一度、枕もとに使用済みの下着か靴下でも飾って眠るといい。どの枕でも、高鼾をかけるだろう」

 そうすれば、荷物が減る——。

 まあ、そうかもしれないが、下着か靴下の匂いで眠るという気にはとてもなれない。それに、やはり、この枕の厚みと、頭部を優しく包みこみ支える適度な硬さの心地よさは、手離せないのだ。

 いくら嗤われようと、ようやく探しあてた枕を外泊でも使うのをやめるつもりはない。旅行用トランクのかなりの体積を要しても。

 暫くして例の扉を細く開けてみると、結架はすでにベッドで安らかな寝息を立てている。鞍木は安堵して扉を閉め、ベッドの脇に置いてあるいくつかの書籍のうち、聖書を読むことにした。イタリア語と英語の新約・旧約聖書が揃っていて、彼は英語の旧約聖書を手にとった。

 拾い読みで聖書の頁を捲っていると、ノックの音がした。立ち上がって扉を開けると、そこには、眠っているはずの結架が立っている。彼女の頬は青褪めていた。

「結架くん。どうしたんだ? 無理をすると体を壊すぞ」

 血の気の抜けた唇が動いて、少し掠れた声が出た。

「大丈夫。ちょっと散歩をしたくなったの。室外そとの空気が吸いたいから。敷地内からは出ないわ、良いかしら」

 鞍木は嘆息をついてから、やれやれ、と微笑んだ。

「あんまり良くないけど、止めても無駄そうだな。気をつけて行っておいで。但し、人の居ない場所には行かないようにな」

「ありがとう」

「なるべく早く帰ってくるんだぞ」

 従順に「はい」と答えてから結架は背を向け、歩き出した。その後ろ姿を鞍木は心配そうな目で見ていたが、彼女の姿が扉の向こうに消えると、再び聖書を手にし、窓際の一人掛け椅子ソファに腰掛けた。

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