第1場 序曲——邂逅 (10)

 あの声。

 ——『失礼』

 涼やかな、若い男性の声。

 懐かしい声の色。

 ——懐かしい?

 結架は自分で表現した心の言葉に驚いた。

 たしかに初めて聞いただろう声の筈なのだが、柔らかでありながら玻璃クリスタッロのように澄みとおった、その響きには、どこか結架の内に潜む憧憬にも似た感情を呼び覚ますところがあった。

 何処かで聞いた過去ことのある声だったのだろうか? だが、結架には思い出せなかった。

「結架くん」

 電気コードのことを管理人に告げたあと、ようやく出てきた鞍木に、結架は振り返って、小さな笑みを見せた。

「ごめんなさい。なんだか、知っている人の声だったような気がして、思わず……」

「なんだって?」

 不得要領の素振りを見せた鞍木だったが、結架は構わなかった。この感覚は感じた者にしか解らない。自らも理解に苦しむような、言葉にならない、根拠のない思いだから、説明するのも難しいのだ。

 既視現象デジャ・ヴュ——すでに見た、という意味のフランス語である。先ほどの結架に起こったものは、それに可成り近いものだ。既感覚、とでもいえばいいものか。

 実際に耳にしたのは初めてだろうが、しかし、初めて聴いた気がしない。過去に聴いている気がする。確かにこの声を知っている——。

 そんな思いが顕在意識にも去来したから、結架は慌てて声の主かれを追ったのだ。しかし、見失ってしまった。

 同じ道を戻って、市庁舎と野外劇場アレーナ、ブラ広場のほうへ行こうと鞍木が言うと、結架が沈黙したまま頷いた。

 考えこむ結架をそのままにして干渉せず、鞍木は車の鍵を出そうと右手をズボンのポケットに差し入れた。そして、瞠目ぎょっとした。

 沈思黙考しつつも鞍木の隣で歩を進めていた結架が、突然、駆けだしたのである。なんの前触れもなく、そして、ひとことの断りもなく。

「え——?」

 右へ曲がるべきところを、曲がらずに、まっすぐ行く。

 あちらにはカステルヴェッキオという中世の城がそびえ立っている。ただし、現在では、一四世紀から一八世紀までにかけてのヴェローナ派絵画を展示する、市立美術館となっているのだが。

「おい、ちょっと……」

 再び鞍木は置き去りにされた。結架の姿は、あっという間に遠ざかっている。

 鞍木は慌ててポケットから右手を出し、またもや急いで結架を追うことになった。

 異国の人々と言葉の中を、鞍木は走る。

「結架くん!」

 彼女は応えない。

 亜麻色の髪をなびかせ、疾走する。

 まず先に電灯配線の故障を管理者に告げなければならなかった先ほどとは違い、すぐさま結架を追いかけられたので、今度は彼女を捜さなくて済む。要は見失わないこと。そして、できるだけ早急に追いつくことだ。

 そう考えを巡らせつつ、鞍木は結架の行く先を見こそうとした。しかし、いったい何故、彼女が突然に駆けだしたのかを考えるような余裕は、今の彼には無かった。ここは、鞍木よりも頭ひとつぶん以上は背の高い人々が溢れている場所なのだ。鞍木は何度となく視線を阻まれ、行く手を遮られた。

 そんなわけで、鞍木は全力疾走というわけにはいかず、結架に追いつくこともできなかったが、走行速度に自制を求められているのは彼女も同じようで、危うく見失いかけそうにはなったものの、完全に姿を見つけられなくなることはなかった。

 結架は、鞍木の予想に反して城の脇を通りぬけ、レガステ・サン・ゼーノ通りを一気に駆けぬけた。だが、そこで鞍木の視野から彼女の姿が消えていた。団体ツアーの観光客たちが鞍木の前を横切った、ほんの一瞬のことだった。二手に分かれた道の、どちらに行ったものか。

「結架くん! どこだ!」

 日本語で叫ぶ彼を、目を丸くして周囲の人々が見つめる。しかし、それを気にするようなゆとりもない。

 鞍木はぐるぐると見まわしたが、日本では目立つ結架の髪の色は、ここでは紛れこんでしまう。見つからなかった。

「結架くん!」




 昂揚する心に相反して足取りは重たく、急きたち逸る気持ちとは裏腹に歪曲した時間は絵画の中に繋がり、低迷しつつも緩慢に、そして確実に緊密な場面へと進んでいく。

 動かない往年かこの場所で、動くしかない生物たちが、戸惑いを抱えながら死なない空間を漂っている。ここは——そうした場所なのか——。

 民衆的な表現に完成されたと有名な、聖堂入り口の、青銅扉の彫刻。

 舞い上がる鳩たち。羽風に散る真っ白な羽と、結架の後姿。

 その前に立ち——。

 一羽の鳩が舞い降りる。

 ——体ごと振り向き——

 羽を二、三度ばたつかせた。

 ——『キリスト受難伝』を背にして。

 青い空に白い帯が走る。太く、細く、また太く。そして帯は地上へと広がった。

 羽音。

 それに混じって、微弱な、結架を呼ぶ、鞍木の声。

 羽音。

 結架は振り返らなかった。

 場に訪れるのは、

 静閑。静謐。静和。

 結架は微動だにしていない。じっと男性かれに見入っている。否、魅入られているのか。

「あなたは——」

 結架の水晶の声が震えた。

「あなたは、わたしの——」

 海の上に輝く街が、心の中に甦る。光り輝く瞬間。

 微風そよかぜに消され、結架の言葉は鳩たちの羽毛に搦めとられる。

 白すぎる羽が風に吹き飛ばされ、彼の顔が鮮明はっきりと見えた。

 あと、五、六歳ほど若ければ、妖童ようどうと言いあらわされたであろう——この世から逸脱した美貌。

 自分を凝視する結架の様子に不自然さを感じているだろう彼の、端正で綺麗な顔にあった戸惑いと怪訝の表情に、変化が起きた。弱い硬直が解け、彼は形のよい唇を曲げて微笑したのだ。彫像が、重みを取りはらわれて動き出したのかと思った。

 この笑みを、見たことがある。

 しかし、それなら彼は、どうしてヴェローナにいるのか。何故、なにも言わないのか。

 そして結架は直感した。

 ——彼だわ。

 つい先刻に見た人影。

 薄闇を纏っていたくせに暗闇を避けるように地下室を出て行った、謎めいた人物。たった一人で、少女の墓を守るが如く、立ちつくしていた、彼だ。

 彼の唇と目元には、真意を汲めない、雅やかな微笑みが浮かぶ。

 誰よりも、何よりも美しい、まるで地球このほしそのもののように——。

 サンゼーノ・マッジョーレ聖堂の前に降臨した天使。

 以前に別の聖なる場所で出逢った天使。

 ここで彼が声を聞かせてくれたら、きっと確信できる。

 つい、先ほど、たった一言だけ聞いた声を、もう一度。

 ——お願い。なにか言って、わたしに教えて。

 結架は心のなかで叫んだ。

 ——この対面が邂逅であると証明して!

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