第1場 序曲——邂逅 (9)

 自分自身の死によって最愛の人を死なせてしまうなんて。そして互いの死によって、互いを殺し合うなんて。

 一段一段、階段を下りるごとに、石の間隙から気化したうたが揺らめきながら昇ってくる。熱を帯びたそれが、冷気と縒れていく。


 美しすぎてしまうものは

 いかなるときも、魔の魅惑

 それそのものが、魔力をもつ


 天使しろ悪魔くろになれるけれども

 悪魔くろ天使しろにはなれやしない

 神秘の光がないのなら


 自分を殺す ことによって相手を殺す

 愛されることが、死なせてしまう


「結架くん? 降りないのか」

 耳元で聞こえた鞍木の声が、結架を奇怪な空気の中から引っ張り出した。

 自分だけの力では拒みきれない、妖しの世界からの不思議な力によって誘いこまれているような感覚。それを結架は、ぎこちない冷笑で否定した。

「ええ……、ええ、降りるわ……」

 意を決して足を踏み出す。ばかばかしいと思いながらも、結架は後込しりごみしようとしている自分がいることに気がついていた。

「あ……」

 壁が左右にひらけて、薄暗い地下室に出た。

 誰の姿もない。そのためか、空間としてはかなり広々としている。

 結架は首を回して室内を見渡した。

 部屋の広さに対して灯りの数は少なく、それも小さな電球の入ったランタン型の電灯がコードを床の隅にうねらせて、背の高いスタンドに吊るされているだけだった。上を見上げると、あるべき電灯が消えている。どうも、ランタンは急拵えのようだった。すみずみまで光が行き渡らずにいるのは仕方がない。

 背骨が緊張するような厳粛な静謐さに耐えるように、結架は床に足を下ろした。ときおり電灯から弾けるような小さな音が微かに聞こえる以外は、二人の跫音あしおとと、息づかいしか聞こえない。結架は安堵と畏怖の絡みあった複雑な感情にとらわれて困惑した。

 ドーリア式円柱の装飾に挟まれた出入り口をくぐる。

 琥珀色に輝く光が淡く厳かに広がる中、それは、奥の空間に鎮座していた。ぽつんと、しかし、石室に満ちるほどの存在感を放ちながら。人々の夢想をいやが上にもかきたてる古い赤大理石の棺には、蓋はない。かわりに端がすりきれたアストラカンが掛けられていて、それが棺に触れようとする人の手を敢然と拒絶しているかのように見えた。

 この毛皮の下に、美しい少女が眠っている。

 愛しい青年の面影をいだいたまま。

 死をも厭わぬ恋慕にかれて。

 ——ああ、待っている。

 死んでいても、彼女の胸の愛は消えていない。たとえ、彼の愛には抱かれていなくても、己自身の彼への愛に抱かれている。守られている。だから、こうして待ち続けることができる。

 結架の胸がふくらみ、ふくらみ、そして弾ける。

「なんだ、こんなものか」

 その瞬間、中世の馨りを吸いすぎた結架の胸は、しゅるしゅるとしぼんだ。

 鞍木が結架の背後で、失望を有らん限りに込めた調子の大声で言ったのだ。階段の上まで聞こえそうなほどの。どうやら、彼は結架とは違う印象を抱いたようだ。悲恋物語の劇的瞬間を迎えた舞台にあるべき雰囲気を壊しかねない発言だったが、結架は小さく首を振って微笑んだ。

 どうせ日本語なのだから、もしも近くに誰かがいたとしても、イタリア人たちには意味など通じまい。その語調から落胆きもちは伝わってしまうかもしれないが、どのみち観光客の姿が殆ど見当たらない今ならば誰かに聞かれる心配はない。そう思ったのだ。

 それなのに。

 くすり、と笑うような吐息が聞こえて、胸どころか足の裏まで波打った。

 ——誰かいる⁉︎

 それも、どうやら日本語に通じた存在が。

 結架は身動きひとつせず、呼吸を抑えた。

 二人とも、全神経を集中させたが、人間が出す音は聞き取れない。人影も見えない。

 結架は、不安とともに、別の何かが心に騒ぐのを感じていた。

 自分の内部に今まで全く思いもしなかった事実が隠されているような気がして、落ちつかない。忘れていたものを思い出しかけているような、奇妙な感覚。絶対的な喪失感から抜け出そうとする、足掻きにも似た——。

「失礼」

 結架が顔を上げ、首だけ振り向かせて鞍木を見た。

 一瞬、二人は顔を見合わせ、次いで辺りを見まわす。

 ——今の声は、どこから?

 突然、頭上のランタンの灯りが点滅しだした。

 鞍木は人影探しをやめ、ランタンを見つめた。その下部から床をつたいのびる幾本もの細い電気コードを辿ると、二本の太いコードに繋がっているのが確認できる。それをまた辿っていくと、その途中でゴムの被膜が破れ、傷ついた中の電線同士が当たって火花を散らしているのが見えた。鼠の仕業だろうか。いずれにせよ、このままだと、いつまで灯りがついているものか、わからない。

「まずいな。ただでさえ灯りが足りなくて暗いのに、それが全部消えたりしたら……」

 正体の知れない声の主じんぶつのことを瞬間的に忘れ、鞍木は、結架の肩に手を置こうとした。

「結架くん、急いで上に戻ろう。そこで電気のコードがショートし——」

 言いさした鞍木の横を、風とともに人影が通りすぎた。身長が一七〇センチメートルの鞍木より、ごく僅かに背が高い。ほんの一瞬だったので、髪型と体格から見て男性だということしか解らなかったが、彼は、何故か急ぎ足で大股に階段を上がっていった。

 どうやら、ひとつだけスタンドに掛けられているのではなく、天井から鎖で繋がれ、ぶら下がっているランタンがあったようだ。ただ、そのランタンはすでに灯りが点っていなかった。さらに、その場所は、他のランタンから放たれる微弱な光が届かない距離にあった。それらのことから、人影かれは、多分、その真下に立っていたのだろう。それで見落としたのだ。

 茫然と階段を見やる鞍木の後ろで、同じように身を硬くしていた結架が動いた。自分でも理由がわからないまま、気づくと彼女は、鞍木を行き過ごしていた。

「ま、待って!」

「なっ? 結架くん——」

 駆けだした結架の後に続こうとして、鞍木はつんのめった。そこで遂に電気コードが限界を迎え、ランタンの中の電球すべてが、微かに残っていた光を失ったのだ。突然いきなり闇の中に放り出された鞍木は舌打ちし、壁に左手をあてながら右手で前を探り、階段に向かう。

 追ってはみたものの、結架が遅かったためか、それとも彼が速かったからなのか、階段を上りきったころには、もう、彼の姿すら見あたらなかった。

 影の実体がどこに行ったのか、結架には知る手段よしもない。それでも結架は諦めきれなかった。

 外の通りまで捜しに出る。だが、矢張り、あの声の主とおぼしき人物は見あたらない。

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