第1場 序曲——邂逅 (8)

「ああ、日本の神話もギリシャからの影響を受けているかもしれない、という話か」

 時は、紀元前七世紀前後。古代ギリシャ人たちは黒海周辺に多くの植民市を作って移住していた。そして、彼らの神話を題材にした文化に深い影響を受けていたのが、黒海へと流れるドン川、ドニエプル川、ドネストル川流域の豊穣な土地を支配する遊牧民族——弓馬の術に優れ、戦争にかけては秀逸な才能を持っていた——スキタイ人だった。

 スキタイ人はユーラシアの草原ステップ地帯に住む人々に多大な影響力を持っており、彼らは遊牧生活のなか、シベリア南部からモンゴルを経て中国の東北部まで、ギリシャ神話の性質や概要などとともに祖先への憧憬という文化をもたらした。

 そして、日本の神話を記した文献である『古事記』と『日本書紀』が前後して書かれたのが八世紀。その頃の日本は朝鮮半島と密接な結びつきを持っていて、大勢の知識人や技術者をそこから迎えていたといわれている。

 草原地帯の東端である中国に、スキタイ人や他の民族を介して伝えられたギリシャ神話という文化が、このころ朝鮮半島を通して日本に持ちこまれたと考えるのは、悪くないはずだ。そして土着の神話と混ざっていった。

 十数年前、学生時代に学んだ知識が長い時間の隔たりにも屈せず留まっていることに、鞍木は自分でも驚いた。たしかに、そのころ親友と議論を交わした内容の話題であるとはいえ。

 人間の生涯において記憶力が最も明敏なのは一七歳頃だといわれる。それ以降は次第に衰えていくらしい。だから、名詞の亡失がないことに、彼は一際強く驚いたのである。若いころに覚えたものは忘れないというが、それは真理をついているのかもしれない。

「そういえば……ロメーオの友人マキューシオが言う台詞に……シスビーという女性名があったと思うわ。それって、ティスベのことかしら? ギリシャ神話では、どんな話の流れなの?」

 結架の言葉に、再び鞍木は我に返った。

「——えっ、『ピュラモスとティスベ』か? ええと……。

 むかしバビロニアという国に、隣同士に住んでいる恋仲の青年と少女がいて、憎み合っている互いの親に結婚を反対された彼らは、駆け落ちを決意する。でも、行き違いが起こって、待ち合わせ場所に早く着いたティスベはライオンに遭遇してしまうんだ。それで岩蔭だかに隠れるんだけど、慌てていたんで、被っていたベールを落としてしまった。当然、構っている余裕なんてなかったから、とにかく身を隠して、ベールは放っておいた。それが良くなかった。

 一足遅く約束の場所に来たピュラモスは野獣に裂かれたティスベのベールを見つけて勘違いというか早合点をする。自分が遅れたために彼女がライオンに襲われて殺されてしまったと、てっきりそう信じて、その場で自害してしまうんだ。その直後に、隠れていたティスベが岩蔭から出てきて彼の死体を発見する。生きる意味を失った彼女は恋人の後を追って死を選ぶ。

 我が子の迎えた惨たらしい最期を知った二人の親たちは自省して、愛に殉死した二人を不憫に思い、彼らの遺体を同じ墓に埋葬した——と、ざっと、そんな内容だ」

 簡潔かつ明瞭とした説明に、感情を排した鞍木の声音と淡々とした抑揚のない口調が現実性を薄めて物語の悲痛さを和らげてくれる。それが結架にとっては有り難かった。

 熱い溜息が、結架の喉からあふれ出る。

「マキューシオは予言したのかしら。本当に似通っているわ。怨敵として互いに憎悪を燃やす両親に交際を禁じられることも、二人が逃避行を計画することも、行き違いになって結ばれないことも……。

 それから、ロメーオはジュリエッタ、ピュラモスはティスベの死を誤信して自死する点、そのあとでジュリエッタ、ティスベが、恋人の後追いをするという点も。残された家族が憎しみ合ってきた過去を悔いて二人を弔うという点まで同じだなんて」

 鞍木が頷き、

「勿論、相違点もある。

 ピュラモスとティスベが壁越しに駆け落ちの約束をしたのに対し、ロミオとジュリエットのほうは第三者に約束の取次を委託しなければならない状況にあった。それから、ピュラモスはロミオのように殺人の罪を犯して追放されるなんて憂き目に遭っていない」

「ええ、そうね。それに、ジュリエッタは望まない結婚を強いられて、さらに追いつめられたけれど、ティスベにはそんなことはなかったんでしょう。そのことを考えると、ロメーオとジュリエッタの二人のほうが厳切な境涯まわりあわせのように思えるけれど」

 結架がそう漏らすと、鞍木はつい、それに反論してしまう。

「どうだろう。ロミオとジュリエットの二人には乳母や神父のような理解者や協力者が傍にいたけど、ピュラモスとティスベには誰も味方が登場しないからな。だからこそ、ロミオとジュリエットの場合は泥沼化が激しかったのかもしれないが。なんというか、こう、極限まで希望を捨てられなかったというか……。

 ただ、彼らは秘密結婚をして、ひとときにせよ、夫婦としての幸福に恵まれただろうからね」

「そうね。大体、結局は、どちらの恋人たちも非業の死を遂げるわけだから、どちらがより幸せかなんて量れないし、測っちゃいけないわね」

 その、結架の声の明るさは、背後に暗雲を背負った五月の陽射しに似ていた。

「四人は酷似しているようで、まったく別の人間ひとたちだものね。でも……それでも全員が同じ運命を辿ったのだわ……」

 鞍木から視線を逸らした結架の目が向いた先に、古そうな、細く黒い手すりがある。同じ素材らしい鉄格子が碁盤模様のように厳重にはめられた窓がある壁と、そのあいだから、不意に金髪の中年女性が現れた。階段を上がってきたのだ。鞍木は驚きに息をのんだが、感情を消した抑揚のない結架の独語が耳に小さく響いてきて、呼吸を整えた。

「どんな二人なら、死なずにすむのかしら」

 聖堂から立ち去っていく女性が上ってきた階段に向かって、二人は歩きだした。

 すれ違いに出ていった女性の体は中世の空気を纏っていた。それを感じて結架は少し怯む。この階段の下には、悲恋の運命に嘆き逆らい、愛しい人を待ち続ける夢に溺れた、美しすぎる少女が眠っている。

 堅く冷たい、石の寝台に身を委ねて。

 すぐそばに転がる、恋人の亡骸を忘れて。

 死して結ばれる愛など、あり得ない。

 そんなものを信じるのは、生きながら孤独の棺に埋葬された、恋に指すらのばせない、臆病で気の毒な妄想狂……夢の亡者パラノイアだけだ。

 現実のぞみを夢の中でしか実現できない偏執狂の、一滴の雨粒よりも弱い、泡沫うたかたの幸福。

 ——怖い。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る