第1場 序曲——邂逅 (7)

 今回の日程を組んで北イタリアの観光する場所を選び、ホテルなどをすべて調べて手配をした、KURAKI音楽事務所の女性社員が、鞍木に旅行計画の説明をしたときに熱っぽく言っていた言葉を、彼は思い出した。

 ——ロミオとジュリエットの愛が、この世の高みにまで昇りつめ、手に手をとって、共に天に召されて行った場所です。素敵でしょう。

 それを聞いたとき、彼は苦笑した。けれど、意外なことに、結架は女性社員とは違う視点でいるようだった。

「うん。玲子さんに聞いたけど、すこぶる怪しいな。本物かね」

「さあ。修道女たちの洗濯槽に使われていたこともあるみたいだけれど。でも、真贋はどうあれ、とても素敵なものだわ。流石はイタリアね」

 結架の声は恍惚としている。

 しかし、なにが流石はイタリア、なのか、鞍木にはよく解らない。解らないながらも彼は頷いた。

「でも、墓よりも君のお気に召すだろう場所があるんだよ。さっき通ったコムーネ宮の近くが、もの凄く混雑していたろう。あのあたりにジュリエットの家があって、中庭にある、彼女の銅像の右胸に触れると幸福な結婚が出来るって言われているそうだ」

「そんなものまであるなんて」

「うん。あまりに混雑してたんで避けてきたけど、もし行きたいなら車に戻る前に寄っていくが」

 すると、彼女は何やら申し訳なさそうな目つきで鞍木を見た。その目を見た途端、彼は理解した。まったく結架は表情だけでも正直なのだ。

「知ってたね。どうやら、君のほうがヴェローナに詳しいみたいだ」

 思いかえせば、これまで観光してきた場所や見どころ、歴史、逸話にいたるまで、結架は詳しすぎるほどだったのだ。事前に予習していたのだとすれば、それも納得できる。

「今回の演奏会がヴェローナだと聞いて、どうしても知りたくなってしまって。この街の文化が、この街の人々に、どういう感じかたを育んでいるのか。それで、玲子さんにお願いして、ヴェローナの資料をいろいろいただいて読んでいたの。聖フランチェスコのことは母の本で知ったことだけれど、そのほかは、そうやって調べたのよ。

 だけど、鞍木さんが張りきって案内してくださっているのが嬉しくて、言い出しにくくて。ごめんなさい」

 しかし、それを聞いて鞍木は深く反省する。

 結架が、聴衆となるヴェローナの街の人々の心の琴線を探ろうとしたのなら、それは無駄に終わったことになる。実際に演奏会をするのは別の都市であるのだから。それも鞍木が嘘をついたためだ。

「おれこそ、悪かった。君の努力を台無しにしたも同然だ」

 真摯な声に結架が目を見開く。

「それは違うわ、鞍木さん。ほんとうに価値のある音楽なら、どこの国の、どんな人にも、なにかを訴えかけるはずよ。私に本物の才能と実力があるとすれば。ピサネッロの絵画や、この街の建築物、彫刻みたいに。

 だから、たしかに街のことをいろいろと調べたけれど、それだけじゃなくて……イタリアそのものが懐かしかったから……はじめて行く街のことも調べずにはいられなかっただけかもしれないわ」

 鞍木の数倍は真摯な声だった。

 みどりを帯びた明るい茶色の瞳にも、澄みきった純粋な光が、煌々と輝いている。

 彼は古い誓いを胸に新たにした。この清雅を護るために、すべてを尽くそう、と。

「じゃあ、君にロミオが現れるように、ジュリエット詣でめぐりといこうか」

 そして、鞍木は結架の反応を待たずにつけ足した。

「おれにも、ついでに少々ご利益を授けてくださるかもしれないし」

 それを聞くと結架は小さな吐息を放ち、微笑を浮かべたまま、頷いた。

「ところで、鞍木さんは知っていらっしゃるかしら? そもそも『ロミオとジュリエット』がシェイクスピアのまったくの独創ではないことを」

「ああ、聞いたことはあるな」

 世界に誇る、イギリスの俳優兼、劇作家兼、詩人。その名もウィリアム・シェイクスピア。彼が著した、世界で最も有名な悲恋物語の一つだ。

 敵対する家同士に生まれ育ち、やがて出逢ったロミオとジュリエットが、その日のうちに相思相愛になりながらも数々の不幸な周囲の争いと行き違いに巻きこまれて引き離され、その不幸に懸命に抗って二人で生きていこうとするものの、結果的に死をともにしてしまうという悲劇。

「それなら、物語の舞台がここであるということも覚えていらっしゃるわよね」

「そりゃあね。登場人物の家やら墓やらあるくらいだし。でも、まったくの独創じゃないって、つまり、彼に先んじて誰か似た内容の物語を創っていたのか」

「似た、どころではないわ。皇帝派ギベッリーニであるモンテッキ家と教皇派グエルフィであるカプレーティ家の対立によって悲劇の末路を辿った不幸な恋人たちの家名は、ここヴェローナに実在したの。時代とか、派閥とか、いろいろと齟齬はあるけれど。

 この物語の原型はイタリアの古い短編物語にあって、それを文学的に完成したかたちにしたのが、ルイージ・ダ・ポルトと、マッテーオ・バンデッロよ。

 シェイクスピアは、バンデッロの『新奇な物語集』に想を得て、名詞を英国風に替えて戯曲にしたらしいわ」

 すらすらと固有名詞を口にする。

 鞍木は感心しきって結架を見つめた。

「たしかに名前はそれぞれ響きが似ているよな。モンタギューとキャピュレット……」

「ええ、そう。モンテッキがモンタギューに、そして、カプレーティはキャピュレットに」

「しかしまあ、ここに来る人たちは大概がシェイクスピア著作による物語、と頭に置いてるんだろうなあ。なんか、気の毒だな」

 同情からか、鞍木は深い息をく。

 すこし割りきれない様子でいる鞍木の横顔を見上げて、結架は慰めるように、小声で言った。

「でも、現在では、これと似たような物語なんて、ありふれているから」

 それを聞くと、鞍木の眉間に記憶を探るとき特有の兆候しるしが現れた。

「そういえば、あいつとギリシャ神話の話をしたときに、似たような筋の神話を聞かされたなぁ。シェイクスピアの『夏の夜の夢』の劇中劇にある題材と、そっくり同じなんだとかで……ピュラモスとティスベ……だったかな」

「あら。ここでも、ギリシャ神話?」

 結架の瞳に好奇心が宿った。それを見て、鞍木は意外に思う。回廊の柱に背をもたせかけ、訊いた。

「君は聞きおぼえがないのか?」

「知らないわ。ギリシャ神話について解るのは、主要な神々であるオリュンポス一二神についてくらいと、さっき、サンタ・アナスタージャ聖堂で話したペルセウスをはじめとする、ヘラクレス、テセウスという英雄の名前。あとはキリスト教だけでなく日本の神話とも通有性があるとか。そのぐらいよ」

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